小平義雄

小平義雄(おだいらよしお 1905年1月28日生)
 [連続強姦殺人犯]



 栃木県生まれ。子供の頃から吃音症であった。1923年に陸軍の兵隊となったが、戦地として赴いた中国(南京攻略戦)においても婦女暴行や妊婦の殺害などを行っていたという。小平は結婚していたが、浮気相手である女性に子供を産ませていた。1932年7月、それを知った妻が小平から離れて実家に戻ったところ、逆上した小平は妻の実家を襲撃、鉄棒で義父を殺害し、6人を負傷させた。この殺傷事件で小平は懲役15年の有罪判決を受けたが、戦時中ということもあり1940年には服役を終え出所していた。

 その後小平は、太平洋戦争末期から敗戦直後の東京において、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職口の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦して殺害するという手口で犯行を重ねていった。

第1の事件
 1945年5月25日、勤務していた海軍衣糧廠で女子寮に侵入して21歳女子隊員を強姦して殺害。憲兵隊が捜査の際に、別の男に嫌疑がかかった隙をみて、小平は退職をして寮を抜け出した。

第2の事件
 同年6月、東武鉄道新栃木駅で31歳女性を農家を案内すると山林に誘い出し、3度強姦したのちに絞殺。現金70円と腕時計を奪った。遺体は9月10日に発見された。

第3の事件
 同年7月12日、渋谷駅で22歳女性を農家に案内すると山林に誘い出し、女性に持っていた小刀を突きつけられたが、逆に奪い取って馬乗りになって絞殺。現金40円入りの財布と腕時計を奪った。

第4の事件
 同15日、池袋駅で21歳女性に農家を案内すると声をかけて雑木林に彼女を連れこみ強姦、絞殺。現金60円と下駄1足を奪った。遺体は11月5日に白骨死体となって見つかった。

第5の事件
 同年9月28日、東京駅で21歳女性に農家を案内すると声をかけ、山村に連れこみ強姦・絞殺。現金300円と、物々交換のために持って来ていた縮緬洋服を奪った。遺体は11月1日に発見された。

第6の事件
 同年12月29日、浅草雷門駅で21歳女性に農家に案内すると声をかけ、栃木県の山村に連れ込んで強姦・絞殺。現金130円入りの財布とリュックを奪った。

第7の事件
 1946年8月6日、就職の斡旋をすると6月18日に声をかけていた17歳女性を公園裏に連れだし乱暴し殺害。8月17日に遺体が発見された。この事件では6月に声をかけられた被害女性が小平と住所を交換し、8月4日に彼女の自宅を訪ねて母親が小平と会っていたため、8月6日に女性が小平と出かけたことが判明し、逮捕された。被害者となった17歳女性は、大相撲の立行司・木村庄之助(24代)の実娘・緑川柳子であった。

 小平は他の事件への関与も自供したことから、連続強姦殺人事件が発覚した。犯行の動機について小平は、「私が女達を殺害した理由は、死に顔を見たいとか、死の苦しみを見て喜ぶとかいったことではないのです。女は殺さなければ言うことを聞かない。殺してからゆっくり楽しんでやろうと思うからです。普通のやり方より死姦の方がいいです。自由になりますから。女を殺した後、陰部を見ながら、今まさに関係しようとする瞬間が何とも言えないのです。」と供述した。小平は事件10件について起訴され、3件が無罪、7件が有罪となった。そして1948年11月16日、小平に対する死刑判決が確定した。死刑判決直後は粗暴な態度が目立った小平であったが、面会に来た妻が自責の念を泣いて告白したことや、また教誨師との交流を通じて、次第に態度を改めていった。

 1949年10月5日に死刑執行。当日、教誨師に対し「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と言った。そして、「自分は荘厳な気持ちですべてを清算し、静かな気持ちで死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うしてください」とする遺書と「亡きみ霊、赦し給へし過去の罪、今日の死を待ち、深く果てなん」という辞世の句を残した。

 1949年10月5日死去(享年44)