浮谷東次郎(うきやとうじろう 1942年7月16日)
[レーシングドライバー]
この事故の際、浮谷はシートベルトをしていなかったといわれる。これが怪我の程度を悪化させた一因という声もある。シートベルトをしていれば、車外放出は避けられた可能性が高いからである。友人だった生沢徹は浮谷への弔意とは別に、シートベルト非装着を批判している。
事故の際に浮谷が乗っていたのはレース用車ではなく、「カラス」製作者である林みのるの個人車(ホンダS600)だった。浮谷のために製作途中のレース用マシンに移設するため、シートベルトが取り外された状態だったという。浮谷は林の個人車に勝手に乗り込んでコースインしたらしい。林に事故の責任はないと見る意見が一般的だが、林たちのマシン製作が遅れレース前に練習走行を行う時間がなくなり、結果として浮谷を焦らせたのではないかという意見もある(マシン製作はドライバーの浮谷も徹夜に近い状態で手伝っていたという)。林は浮谷の死に大きなショックを受け、一時的にレース界から身を引いている。
ちなみにこの当時のレースでは、ツーリングカーやGTカーではシートベルト装着が義務化されていたが、フォーミュラカーにはシートベルトが装着されていなかった。また当時の日本の法規では、一般公道でのシートベルトの装着義務はなく(車両への装備義務もなかった)、シートベルトの重要性についての認識は現在よりはるかに低かった。
浮谷は当時の日本人で一番F1に近いドライバーと言われたりもしたが、プロレーサーとしての活動はわずか2年足らずで目立った成績は最後の2戦程度であったこと、レーサーの命とも言える視力が弱かったこと(眼鏡やコンタクトレンズを使用)、関係者によれば実は天才型ではなく努力型であったと言われることなどから、才能や実力は未知数のままと見る意見もある。船橋のレースで浮谷に抜かれたベテランレーサー田中健二郎は、レース後に「あの坊や、そのうち大事故を起こすぞ」と危惧していたという。
1965年8月21日死去(享年23)