ペイン・スチュワート

ペイン・スチュワート(Payne Stewart 1957年1月30日生)
 [アメリカ・プロゴルファー]



 4歳からゴルフを始め、「ミズーリ州アマチュア選手権」で優勝経験のある父親から手ほどきを受ける。1979年にプロ入りしたが、この時はアメリカPGAツアーの「クオリファイイング・スクール」を通過できなかった。そのため2年間「アジアン・ツアー」を回り、そこで2勝を挙げる。その期間中にトレーシー夫人と結婚。1982年からPGAツアーに参戦を開始し、同年の「クワッド・シティ・クラシック」でツアー初優勝。

 7年後の1989年に、全米プロゴルフ選手権でメジャー大会初優勝を達成。1991年に全米オープンでも初優勝を果たし、メジャー大会2冠王となった。その後数年間の低迷期が訪れた。

 1998年の全米オープンで、スチュワートは優勝まであと1歩に迫りながらも、最後の土壇場でリー・ジャンセンに逆転負けを喫してしまう。その1年後、「パインハースト・リゾート・ゴルフクラブ」で開かれた1999年の全米オープンにて、スチュワートは最終日の18番ホールで難しいパーパットを沈め、同じ最終組で回ったフィル・ミケルソンを1打差で振り切り、1 アンダーパーで8年ぶり2度目の優勝を飾った。ミケルソンと1打差の3位タイにはタイガー・ウッズとビジェイ・シンが入る、全米オープン史上稀に見る激戦を制しての優勝だった。

 9月には1993年以来3回ぶりのライダーカップ米国代表で出場し、米国チームの盛り上げ役をつとめる。賞金ランキング5位の位置につけ、当年度のPGAツアー賞金ランキング上位30名のみが出場資格を得られる最終戦「PGAツアー選手権」の会場に向かう途中で、スチュワートは飛行機事故に遭う。

 1999年10月25日、スチュワートはフロリダ州オーランドから2時間の予定でPGAツアー選手権の会場があるテキサス州ダラスに向かっていたが、彼を乗せた「リアジェット35型」ジェット機がサウスダコタ州アバディーンにて、上空45000フィートから墜落した。この事故でスチュワートを含む4人の乗客と、2人のパイロットの合計6名全員が落命した。

 1999年10月25日9時19分、リアジェット35はオーランド国際空港を離陸した。9時27分13秒、高度39000フィート(11900m)まで上昇するように管制から指示され、クルーは9時27分18秒に「47 BA フライトレベル390 了解。」と返答した。これがリアジェットからの最後の無線送信となった。この時機体は23000フィート(7000m)を上昇中であった。6分20秒後、高度36500フィート(11100m)地点を飛行時に管制官が無線交信を試みたが応答はなく、その後4分30秒間において5回以上通信を試みたが応答はなかった。

 10時54分頃に管制官からの要請でアメリカ空軍第40飛行隊のF-16がリアジェットを追跡し始めた。F-16は高度14100m付近においてリアジェットから約600mの距離まで近づき、二度無線で呼び出しを行なったが応答はなかった。F-16のパイロットは、リアジェットの外側に異常が無く、エンジンは両方正常に作動し、赤色衝突防止灯が正常に稼働していることを確認している。しかし、窓は白く曇っており、客室内を見ることができなかった。さらに、操縦室のフロントガラス全体が霜や氷に覆われているかのように曇っていると報告した。F-16のパイロットはリアジェットのパイロットの意識が薄れていることを考え、接近して追い越すことで気流を乱し存在を知らせようとしたが反応はなかった。11時12分、F-16のパイロットはリアジェットの追跡を終了した。

 リアジェットの離陸からほぼ3時間後の12時13分にオクラホマ空軍州兵の第138飛行隊の2機のF-16が追跡を開始した。コールサインはTULSA 13 flightであった。パイロットは操縦席の動きを見ることができず、第40飛行隊のパイロットと同様にフロントガラスが内側から曇っていることを報告した。数分後、パイロットは、「内部は暗くて何も見えない……パイロットから反応はなく、我々を見たような動きも全く確認できない。」と報告した。F-16は燃料補給のために基地に帰投し、やがて、リアジェットは最大飛行高度48900フィート(14900m)に達した。

 12時50分頃、ノースダコタ空軍州兵の119飛行隊から2機のF-16がリアジェットを追跡するよう指示された。コールサインはNODAK 32 flight。2機のTULSA 13も給油から復帰し、計4機のF-16はリアジェットに接近した。TULSA 13のパイロットは「コックピットの窓は氷で覆われており、補助翼・トリムなども動いていない。」と報告した。13時01分ごろ、TULSA 13はタンカーに戻り、NODAK 32がリアジェット近くに残った。

 13時11分01秒、リアジェットは右に傾きながら降下していった。13時11分26秒には、F-16のパイロットは西に位置取りながら「目標は降下しており、回転している。制御不能のように見えます...」と報告。F-16のパイロットは急降下し目標を追いかけた。

 離陸から約3時間54分後の13時13分、機体はほぼ超音速で急角度で墜落した。墜落地点となったサウスダコタ州エドマンズ郡の地面には、長さ13m、幅6.4m、深さ2.4mのクレーターが残った。残骸は粉々になって飛散しており、機体の原型を留めなかった。これは高高度からの重力落下によって、かなりの力が加わったためである。

 リアジェットの残骸から回収されたコックピットボイスレコーダーは墜落30分前から墜落までの音声を記録していた。13時10分41秒、リアジェットのエンジンが停止、それは飛行機の燃料切れを意味していた。さらに、スティックシェーカーの音やオートパイロットのシャットダウン音が記録されていた。エンジンが止まった後もオートパイロットが高度を維持しようとし、飛行機の対気速度が失速するまで低下し、その時点でスティックシェーカーがパイロットに警告し、オートパイロットが自動的にオフになった。

 国家運輸安全委員会(NTSB)は、機内の減圧が起きた後に何らかの理由で酸素を得ることが出来なかったためにクルーが無能力になった事が事故の考えられる原因と決定した。クルーが酸素マスクをつけることができなかった理由としては、彼らが酸素マスクを着用する前に、低酸素状態のために判断能力が鈍った事があげられた。事故機がいつ減圧に見まわれたのかは分からなかった。したがって、NTSBは、急減圧した可能性と少しずつ減圧した可能性のどちらも支持した。

 胴体の破損(小さい穴など)があった場合、キャビンは徐々に、あるいは急速に、減圧する可能性がある。実験により、約30000フィート(9100m)で急速に減圧した後に判断能力が著しく低下するまでわずか8秒しか余裕が無いことが分かった。客室高度警報の後、問題解決にあたったりした場合、パイロットは急速に判断能力または運動能力を失ってしまう。

 スチュワート事故死の報道を聞いて、PGAツアー選手権の会場も悲しみに包まれた。競技の第2日目が中断され、出場選手たちのほとんどがスチュワートの追悼式に列席した。第3日目と第4日目を27ホールずつ消化する競技日程に変更され、世界ランキング1位のタイガー・ウッズが大会初優勝を果たした。

 1999年10月25日死去(享年42)