西部邁

西部邁(にしべすすむ 1939年3月15日生)
 [評論家]



 北海道生まれ。高校卒業まではマルクスもレーニンもスターリンも毛沢東も知らぬノンポリであった。18歳まで重症の吃音であり、ほとんど何も喋らずに生きていた。一年間の浪人生活を経て1958年4月、東京大学に入学。同年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)に加盟。1959年から同大学教養学部で自治会委員長を務める。全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争で学生運動の指導的な役割を果たす。横浜国立大学経済学部助教授等を経て、1986年に東京大学教養学部助教授に就任し、1988年に辞任。

 その後は保守派の評論家として活躍し、テレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」などの討論番組に出演したほか、雑誌や新聞などでも大衆社会への批判を軸にした評論活動を展開した。執筆活動にも精力的に取り組み、2010年、自伝的エッセーを集めた著書『サンチョ・キホーテの旅』で第60回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。その他の主な著作にケインズとヴェブレンを取り上げた『経済倫理学序説』(1983年吉野作造賞受賞)、社会思想についてのエッセーを集めた『生まじめな戯れ』(1984年サントリー学芸賞受賞)などがある。

 2018年1月21日未明、西部が自宅にいないことに長男が気付き、捜し歩いていたところ、東京都大田区田園調布5丁目の多摩川で、両手を白いロープで縛られ、また身体に工事現場用の安全帯(ハーネス)を装着、腰付近にロープを巻き、それが川岸の樹木に括り付けられて水の中に浸かっている状態の西部が発見された。川の中で身体が水に流されることを防ぎ、見つかりやすくしようとしたのではないかと見られている。また顔を鳥や魚につつかれないようにするためか、ヘアバンドを用いてタオルや毛糸のネックウォーマーで眼と口のまわりを覆い、口内には小さな瓶を含んでいた。同日午前6時40分頃「父親が川に飛び込んだ」と長男から110番通報があり、駆けつけた田園調布警察署の警察官が救出したが既に意識はなく、同日午前8時37分に搬送先の東京都内の病院で死去した。現場の河川敷にワープロ打ちの遺書らしきメモが残されていたという。

 西部は死去前日の1月20日夜、新宿の行きつけの文壇バーに長女とともに来店し、酒を飲んでいた。1月20日23時頃、「これから会う人がいるから、先に帰りなさい」と言い残し長女を帰宅させ、その後自身もバーを出たが、その後の足取りは当初不明であった。死因は水死の疑いで目立った外傷はなく、生前の言動や遺書などから当初単独で自殺を実行したものと見られていた。しかし警視庁刑事部捜査1課は、西部発見時の状況に不可解な点があり、西部の死に第三者が関与した可能性があるとして事件性を疑い、間もなく再捜査に入った。西部は晩年手が不自由になり両手に白い手袋を装着して公の場に出ていたほか、日常生活においても周囲の助けが必要であった西部1人では実行し得ないと思われる不自然な状態であったことから、幇助者がいたことが想定された。

 警視庁捜査1課は同年4月5日、TOKYO MX『西部邁ゼミナール』の最後の対談相手であった青山忠司(「表現者塾」塾頭)と窪田哲学(同番組編集担当ディレクター)を自殺幇助の容疑で逮捕した。両名とも容疑を認めており、窪田は「西部先生の死生観を尊重して力になりたかった」「自殺に使用した道具は事前に用意した」、青山は「20年以上お世話になった先生のためにやらなくてはならないと思った」と供述している。長女と別れた後、両名は青山が借りたレンタカーで西部を自殺現場まで連れて行き、ロープや安全帯などを装着させたという。また1月21日未明に大田区内の防犯カメラに西部と窪田が一緒に歩いている姿が映っていた。西部が自殺直前に訪れた文壇バーには窪田らもよく同行していた。両名の逮捕について長女は「2人とも父を慕ってくれていた。なぜ自殺を手伝ってくれと頼んだのか。父が頼んだことなので断って下さったらよかった。2人に申し訳ないことをした」と話している。

 2018年1月21日死去(享年78)