ペーター・キュルテン

ペーター・キュルテン(Peter Kurten 1883年5月26日生)
 [ドイツ・連続殺人犯]



 1883年、13人兄弟の3人目としてミュルハイムに生まれる。家庭環境は極貧で児童虐待も日常的に行われていた。父親は大酒のみで妻に家庭内強姦を強いており、キュルテンが4歳の時には実の娘と近親姦を行ったとして1年3ヶ月の懲役刑を受けている。そのような荒れた環境の中キュルテンは軽犯罪者として成長して行き、しばしば家から逃げ出した。

 9歳の時、泳いでいる2人の友達を溺死させるという、初めての殺人を犯したと後に彼は言っている。1894年、家族と共にデュッセルドルフへ移住する。そこで窃盗や放火などで出入獄を繰り返す。青年期、彼は野犬捕縛者に雇われている。そこでキュルテンは、捕縛者に犬に対して自慰をさせることや、犬に対する拷問を教わる。彼の暴力的な傾向は、動物虐待から人に対する攻撃へと増幅変移していった。

 1913年、ある商店に侵入し窃盗中、就寝中だった14歳の少女を強姦後に絞殺したのが、彼の立証される最初の犯罪である。この犯行時に、彼は自分のイニシャルの入ったハンカチを現場に残してしまったが、偶然そのイニシャルが被害者の父親と同じだったため、警察は父親を容疑者とみなして厳しく追及し、キュルテンは逮捕を免れている。別件で8年間刑務所にいたことから、第一次世界大戦中は彼の犯罪は中断している。1921年には刑務所を出所すると、アルテンブルクに移り住み、ある女性と知り合い、熱烈に恋した末に結婚へとこぎつける。1925年、再びデュッセルドルフに戻る。地元の鋳型工場に就職し、実直な労働者、熱心な労働組合員として評価を固め、近隣でも礼儀正しい、物静かな紳士として振る舞っていた。

 1929年2月8日、キュルテンは8歳の少女を強姦し殺害する。同年2月13日深夜、泥酔してキュルテンに絡んできた45歳の機械工を刺殺する。刺し傷は頭部を含め20箇所に及んだ。獣性を満たされたせいか、以後は誰も襲わなかったが、行きずりの女との荒々しいセックスに没頭していた。やがてセックスでは満たされなくなり、半年後の8月に凶行を再開。8月21日には別々の場所で3人を刺し、23日には5歳と14歳の姉妹を殺害。翌24日にもある女性を襲撃し強姦した。気丈な彼女は「あんたと寝るぐらいなら死んだ方がマシよ!」と喰ってかかり、喜んだキュルテンは「じゃあ死ね」と数十回もナイフを振り下ろした。彼女は奇跡的に一命を取り留め、警察にキュルテンの人相を話しているが、不正確だったためか逮捕には至らなかった。

 同年9月には1件の強姦と殺人を、10月には2人の女性をハンマーで襲っている。この時点でデュッセルドルフは完全なパニック状態と化していた。キュルテンは食堂で働く妻を毎晩のように迎えに行き、「僕が迎えに来るまではここにいなさい」と注意している。同年11月7日、5歳の少女を殺害。彼女を埋めた場所の地図を購読していたドイツ共産党の機関紙編集部に送りつけたりもしている。犠牲者と方法が様々あることから、警察は2人以上の犯人がいるのではないかと仮定した。また90万以上もの人々が捜査線上に浮上した。

 1930年5月のある日、キュルテンはデュッセルドルフ駅構内で、不良青年に絡まれていた少女に声をかけて助け出すと、自宅でお茶を飲まないかと誘いしばらく歓談した後、宿泊先のホテルへ送る途中のグレーフェンベルクの森で少女を強姦したが、この時キュルテンは「俺の家を覚えているか?」と問い、少女が覚えていないと返答したところ彼女を生かしたまま解放し立ち去った。故郷へ帰った少女は友人に一連の出来事を綴った手紙を友人に送ったが、宛名が間違っていたため配達できず郵便局でしばらく留め置かれた後規定に基づき開封された。郵便局からの通報を受けた警察は少女の居場所を突き止め、彼女にキュルテンの自宅を案内させた。そのことを知ったキュルテンは、妻に今まで行った犯罪を告白し今まで妻を欺いたことに対する償いとして、警察へ通報して自分に掛けられた高額の褒賞金を受け取り老後の蓄えにするように促す。そして3月24日、妻の通報を受けた警察に逮捕された。

 キュルテンは約80件の犯罪を自白。9件の殺人と7件の殺人未遂の罪で起訴される。1931年4月から裁判が行われた。当初彼は無罪を主張したものの、数週間後答弁は変化を見せた。結果、死刑の判決を受け、1932年7月2日早朝ケルンにてギロチンを用いた死刑が執行された。彼が執行直前に残した最後の言葉は、「私に残された最後の望みは、自分の首が切り落とされ、血飛沫を噴き出す音をこの耳で聴くことです」であった。

 1932年7月2日死去(享年49)