アンブローズ・ビアス

アンブローズ・グウィネット・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce 1842年6月24日生)
 [アメリカ・作家/ジャーナリスト]



 オハイオ州南東に位置するメグズ郡ホース・ケイヴ・クリークという僻村に生まれる。思春期をインディアナ州エルクハートの町で過ごした。南北戦争が勃発すると、ビアスはインディアナ義勇軍第9連隊に入隊、北軍に参加した。

 戦後、サンフランシスコで夜警をしながら文筆業を開始。1868年から『ニューズレター』紙に掲載された辛口の評論が人気となり、その毒と風刺の効いた筆致から「文筆界の解剖学者」「ニガヨモギと酸をインク代わりにしている」、「ビター(辛辣な)・ビアス」などと呼ばれた。

 その短編小説は19世紀最高の部類に入ると考えられている。みずからの戦争体験において見聞きした凄惨な出来事を『アウル・クリーク橋の一事件』『レサカにて戦死』『チカモーガ』などでリアルに描き出した。もっとも有名な作品として、非常によく引用される『悪魔の辞典』がある。そもそもは新聞紙上で連載されたものが、まず1906年に『冷笑派用語集』として出版された。隠語や玉虫色の表現に痛烈な風刺を加え、言葉に興味深い再解釈を施している。1909年に出版された全12巻の全集においては、『冷笑派用語集』をビアスみずから『悪魔の辞典』に改題、第7巻のすべてを使用して収録している。

 1913年10月、すでに70代になっていたビアスは、ワシントンD.C.を去り、彼が関わった南北戦争の旧戦場をめぐる旅に出た。12月までの間にルイジアナ、テキサスを通過。エル・パソを通って、当時メキシコ革命のために混乱でほぼ内戦状態のメキシコに入国した。シウダー・フアレスでパンチョ・ビリャ軍にオブザーバーとして加入し、ティエラ・ビアンカの戦いに参加している。チワワ州チワワに到着するまではビリャ軍と行動をともにしていたことは判明している。この都市から1913年12月26日に親しい友人へ手紙を送ったのを最後に完全に消息を絶っており、アメリカ文学史上もっとも有名な失踪事件のひとつとなった。

 ビアスのその後の運命を調査する試みはまったく成果をあげられず、百年近くが経過した今となっても、その真相は謎とされたままである。怪物が棲むといわれる横穴などの一切無い行き止まりの洞窟に入って、二度と出て来ずそのまま行方不明になった、という怪談じみた話も広く伝わっている。