和田信賢

和田信賢(わだのぶかた 1912年6月19日生)
 [アナウンサー]



 東京生まれ、東京府立第五中学校、第二早稲田高等学院を経て早稲田大学に進学するも、中退。1934年に日本放送協会(当時は社団法人)へ第1期アナウンサーとして入局。和田が一躍有名になった場面は、1939年の大相撲1月場所の実況中継である。和田はこの場所の実況中継を初日から4日目まで担当したが、4日目(1月15日・日曜日)に70連勝を目指していた双葉山定次が、結びの一番で安藝ノ海節男に外掛けで敗れ、連勝が69で止まった。取組前には「不世出の名力士双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とアナウンスして始まったが、当然、この日に連勝記録が止まるなどとは和田も他の者も誰も予想しておらず、双葉山が敗れた瞬間には控えにいた先輩の山本照に対して「双葉山は確かに負けたましたね!?」と慌てて確認を取ったあと、「双葉敗る!双葉敗る!双葉敗る!!時、昭和14年1月15日!旭日昇天、まさに69連勝。70勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安芸ノ海に屈す!双葉70勝ならず!!」と叫んだ。

 1945年8月15日の終戦放送では進行役を担当。全国に向けて終戦の詔勅を朗読した。その後、NHK山形放送局放送課長として転勤したが、まもなく退職。フリーの立場にいたが、その後、CIEプログラムアナライザーのようなことを委嘱されて放送会館にも出入りしていた縁もあって、NHKの嘱託アナウンサーとして仕事を続ける。戦後は1946年末からNHKのラジオクイズ番組『話の泉』の司会者として活躍、徳川夢声をはじめとする一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、タレントとしての才能も高い人気アナウンサーの地位を引き続き保った。

 1952年8月14日、ヘルシンキオリンピックの実況を終えて帰国する途中にヘルシンキオリンピック期間中に白夜で睡眠不足となっていた疲労の治療で入院先のパリ郊外の病院でにて客死した。

 若くして頭角を現した、NHKアナウンサーでも出世頭と言える存在であったが、その結果若手職員の中でも発言力・影響力を強く持つに至り、このためNHK内部であつれきを受けることになって、終戦直後の山形異動と直後の退職を招いたと言われる。私生活では酒豪であったが、その結果晩年にかけて健康を損ない、早世する原因になった(前述の組織内でのあつれきも、深酒に至る原因であった)。ヘルシンキオリンピックに派遣されるための壮行会の時点で、既に傍から見ても体調不良な様子がわかるほどで、海外渡航自体を周囲から危ぶまれる状態であったという。

 1952年8月14日死去(享年40)