柳家小せん(初代)

初代柳家小せん(やなぎやこせん 本名:鈴木万次郎 1883年4月3日生)
 [落語家]



 東京生まれ。1897年に4代目麗々亭柳橋の弟子になり柳松となったが、師匠柳橋の死去にともない3代目柳家小さん門下に移って小芝となり、その後小せんに改名した。丁寧な演出と敬愛してやまなかった兄弟子3代目蝶花楼馬楽譲りの警句を交じえた巧みな口調が早くから注目されており、落語研究会の有力な若手として期待を集めていた。

 1910年4月に真打昇進したが、それまでの過度の廓通いが祟って脳脊髄梅毒症を患い腰が抜けたため、人力車で寄席に通い、妻に背負われて楽屋入りし板付きで高座を務めるようになった。1911年頃には白内障を患って失明した。

 落語の実力は他の追随を許さないほど優れていた。師匠小さんのネタはほとんど演じておらず、『居残り佐平次』『お見立て』『お茶汲み』『五人廻し』『とんちき』『白銅』などの廓噺を得意とした。『柳家小せん落語全集』『廓ばなし小せん十八番』等の速記本が残されている。

 晩年は師匠小さんの薦めにより、自宅の浅草三好町を稽古場として月謝をとって落語を教えた。この稽古場は「小せん学校」や「三好町通い」と称された。1919年5月、下谷金杉の壽亭で得意ネタ『居残り佐平次』をかけたのが最後の高座となり、その数日後に自宅で心臓麻痺のため死去。戒名「古詮院法有信士」は、生前の1912年に菩提寺の住職からつけてもらった。

 1919年5月26日死去(享年36)