林安夫

林安夫(はやしやすお 1922年4月3日生)
 [プロ野球選手]



 愛知県出身。ポジションは投手。一宮中(現・一宮高)時代はスピードのある直球と抜群の制球力を駆使し、1941年の選抜大会準優勝。この年の選抜大会には、後にプロになった別所昭(のち毅彦)や青田昇らが参加している。1942年に朝日軍に入団。プロでは変化球と制球力で勝負し、1年目に32勝22敗、防御率1.01で、東京巨人軍の須田博(ヴィクトル・スタルヒン)を抑えて最優秀防御率のタイトルを獲得。シーズン投球回数541回と3分の1、登板71試合、先発51試合、完投44試合の日本プロ野球記録を作る。このうち、投球回数、先発試合数のシーズン記録は現在も破られていない。また、完投試合数は新人歴代1位、登板試合数は新人歴代記録であったが、2011年に大原慎司(横浜)に並ばれ、翌2012年に益田直也(ロッテ)が72登板と記録更新されている。

 当時日本は太平洋戦争に突入し、職業野球(プロ野球)の先行きも不透明な状況であったため、林は故障を顧みずに連投するなど野球に全力を注いだという。翌1943年は前年の酷使の影響か、病欠で登板数は減るものの、20勝を挙げる活躍をみせ、1937年から1941年までBクラスだった朝日軍が1942年、1943年とAクラス入りする原動力となる。その後応召し、1944年にフィリピン方面に出征、戻ってくることはなく、戦死したと考えられている。しかし、詳細な死亡日時や場所は現在に至るまで不明のままである。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

 1944年?月?日死去(享年22)