景山民夫

景山民夫(かげやまたみお 1947年3月20日生)
 [小説家/放送作家]



 東京都生まれ。父は警察官僚(のち全日本剣道連盟会長)の景山二郎。千代田区内にある暁星小学校に入学後、父の中国管区警察局公安部長転任に伴い広島市に転居。私立の暁星から終戦数年の広島市立の普通の小学校に入り、強烈な広島弁、被爆で背中一面ケロイドの担任の先生、夜店で拳銃を売買する光景などを目撃し大きなショックを受ける。中高、大学時代 広島の後、山梨県に転居。さらに両親は秋田県に転勤となったが名門武蔵中学を受験・入学したため秋田には行かず、その後は東京・半蔵門のおばの家に寄宿。武蔵高校を経て、慶應義塾大学文学部中退、武蔵野美術短期大学デザイン科中退。大学時代にカレッジフォークグループ「モダン・フォーク・フェローズ」にベースとして参加。モダン・フォーク・フェローズの一員として、東芝から『さよならは云わないで』『朝焼けの中に』の2枚のEPを出す。

 1968年に放送作家となり『シャボン玉ホリデー』を手掛ける。1969年にアメリカに渡り、サンフランシスコのブロードウェイ近くのコーヒーショップでギターの弾き語りとして働いていた。以後1年半の間生活したニューヨークでは、グリニッチ・ビレッジのコーヒーショップ「フォーウィンズ」でフォーク歌手として出演していた。ただし、アメリカ時代の経歴については、後に著書で「創作を含んでいる」としている。帰国後、再び放送作家として『タモリ倶楽部』『11PM』『クイズダービー』等、数多くの番組の構成を手がける。同じく放送作家の高田文夫と『民夫君と文夫君』のコンビを結成、「立川八王子」として落語立川流に入門、風貌が似ていた三浦和義のカリカチュア「フルハム三浦」「スワッパー三浦」として『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんプロレス」にプロレスラーとして出演するなど、自身も盛んにメディアに登場した。高平哲郎、萩本欽一などを公然と批判。ビートたけしから「この人ほど番組潰してきた作家はいない」と評されている。

 中学から大学を通じての後輩である小黒一三の依頼により、エッセイ『普通の生活』を雑誌『ブルータス』に連載しエッセイストとして注目される。1987年『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』で、第2回講談社エッセイ賞受賞。同時受賞は吉行淳之介。小説家としての処女作となる冒険小説『虎口からの脱出』で1987年第8回吉川英治文学新人賞、第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞受賞。1988年、『遠い海から来たCOO』で第99回直木賞を受賞した。

 若い頃から、ネス湖のネッシーや幽霊などをはじめとする超常現象や、原子力発電やゴミ問題などの環境問題に深い関心を寄せる。実子の死去(1972年に長女が生まれたが、難病であるムコ多糖症を患っており、1990年に死去するまで寝たきりの生活を送っていた)などから、晩年には宗教法人「幸福の科学」に入信。1991年の講談社フライデー事件では「講談社フライデー全国被害者の会」の会長として同じく信者の小川知子とともに講談社などに損害賠償を請求する提訴を行った。その後、この強烈なマスコミ批判が敬遠され、相次いで連載が打ち切りになった。それまでは親しい関係にあった高田文夫や小林信彦、ビートたけし、内藤陳、大橋巨泉なども景山と距離をおくようになる。そんな景山を、小林信彦は、「宗教に入ってからも、マスコミ人景山民夫はテレビやラジオに出、いろいろとサービスをしていた。使い分けをするつもりだったのだろうが、本心は宗教にあったとぼくは思う」と推察している。

 1998年1月26日深夜に、成城の自宅書斎で喫煙しながら趣味であるプラモデル制作をしていたところ、接着剤から気化したシンナーに引火。煙草の不始末だとされる。27日午前1時半頃に死去したとされる。死因に関しては当初、やけど、もしくは一酸化炭素中毒と報じられたが公式には特定されていない。検視は行われたが公表されておらず、あまりにも突然の死のため自殺説や他殺説も囁かれたが、いずれも推測の域を出ていない。旧友高平哲郎は、病院で医師に「火傷の方はそんなに重度ではないんですが、一酸化炭素を吸っていますんで難しいところですが、まだ蘇生の手当は続けています」と告げられた。また、息を引き取った後「民夫は顔だけを出して、身体は白いシーツに包まれていた。」「髪はシャワーを浴びてきたような濡れ方をしていたが、多少すすをつけた顔に火傷はなかった。」と述べている。出棺の際、妻は、大好きだった『トラブル・バスター』の田所局長の言葉を引用します、と前置きの後、「バカヤロー! 寂しいじゃねーか!」と、早すぎる死を悼んだ。葬儀は幸福の科学が執り仕切った。

 1998年1月27日死去(享年50)