音楽が死んだ日

音楽が死んだ日(1959年2月3日発生)
 [3人のロックンローラーが航空事故に巻き込まれ一度に全員亡くなった悲劇。]



 1959年2月3日、小型飛行機がアイオワ州クリアレイク近郊に墜落し、バディ・ホリーリッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーの3人のロックンローラーとパイロットのロジャー・ピータースンの4人全員が亡くなった。

 1950年代末から1960年代初頭にかけて、ロックンロールのスターたちが次々とスキャンダルや懲役や徴兵で舞台から姿を消してアメリカの大衆音楽は勢いを失い、イギリスのミュージシャンがアメリカに上陸してくる(ブリティッシュ・インヴェイジョン)までの間、スター不在の暗い時代が続いた。この飛行機事故はロックンロールの時代の終わりを告げる象徴的な事件となった。後に、ドン・マクリーンがこの悲劇を題材にした楽曲「アメリカン・パイ」のなかで、この出来事を「音楽が死んだ日」(The Day the Music Died)として歌いあげ、この呼び名が定着した。

 当時、「ウィンター・ダンス・パーティ」と題された、3週間かけてアメリカ合衆国中西部24の都市をまわるツアーの計画が持ち上がっていた。日程の都合から、このツアーは移動の連続となっていた。開催地間の距離は、公演のスケジュールを組む上であまり問題とされなかったのだった。そういった混乱に加えて、彼らが移動に使うバスも現地の気候に対応するものではなく、ツアーが始まってすぐバスのエアコンは壊れてしまう。バディ・ホリーのバンドメンバーだったドラマーのカール・バンチは足にひどい凍傷を負い、地元の病院へと入院した。彼の療養中は、バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスが交替でドラムを叩いていた。

 アイオワ州クリアレイクの「サーフ・ボールルーム」はツアーの開催地として立候補していたわけではないが、日程を埋めてしまいたいプロモーターが「サーフ・ボールルーム」の支配人キャロル・アンダーソンに声をかけ、オファーをした。支配人はそれを受けて、バディ・ホリーたちの出演日を2月2日の月曜日に設定した。バディ・ホリーがボールルームへと着いたのはその日の午後で、そのころにはツアー用のバスに大きな不満を持つようになっていた。彼はバンドメンバーに、このショーが終わったら、飛行機をチャーターして次のミネソタ州ムーアヘッドに行こうと語っている。ホリーは清潔なシャツや靴下、下着を切らしたことにもいらついていた。次の公演の前にどこかでクリーニングをしたがっていたが、クリアレイクのクリーニング屋はその日営業をしていなかった。

 飛行機の整備をしたのは21歳のパイロット、ロジャー・ピータースンである。彼はアイオワ州メイソンシティのドワイヤー・フライング・サービスに務めている地元の人間だった。ロジャーは一人当たり36ドルの料金をとり、ミュージシャンたちを小型単発機ボナンザに乗せた。ボナンザはパイロットのほかに3人分の席しかなかった。ビッグ・ボッパーはツアー中に風邪をこじらせていたので、ホリーのバンドメンバーだったウェイロン・ジェニングスに席を譲ってくれないかと頼み、ジェニングスはそれを了解した。彼が飛行機に乗らないと知ったホリーは、「それじゃボロいバスで凍えるがいいさ」と冗談を飛ばした。彼もやはり冗談で「それじゃ君はボロい飛行機で落っこちるといい」と返したという。その後、このやりとりはジェニングスを一生苦しめることになる。それまで小型飛行機に乗ったことがなかったリッチー・ヴァレンスも、もう一人のバンドメンバーであったトミー・オールサップに席を代わってほしいと頼んだ。トミーは「もう一つの席はコイン次第だ」と返した。コイントスの結果ヴァレンスが勝利し、席を手に入れた。

 そして、3日午前0時55分ごろに飛行機は離陸した。ちょうど午前1時すぎ、コマーシャル・パイロットでありこの飛行機のオーナーだったヒューバート・ドワイヤーは、管制塔のデッキから「尾翼が次第に下がって、そのまま視界から消えた飛行機」を目撃している。ピータースンは、出発してから航空管制センターと無線でフライト・プランをつめるつもりだとドワイヤーに話していた。しかしピータースンは管制官を呼び出さず、ドワイヤーは管制官に無線で交信を続けるようにと要請したが、何度試しても成功しなかった。午前3時30分になってもノースダコタ州ファーゴのへクター空港ではピータースンから何の連絡も受けることはなく、ドワイヤーは当局に飛行機の行方不明を報告した。

 午前9時15分ごろ、ドワイヤーは別の小型飛行機でピータースンが予定していた航路を飛んだ。彼はすぐにトウモロコシ畑に残骸がちらばっているのを発見した。空港からおよそ北西へ8kmのところだった。ボナンザはわずかに右に傾き、そこに転がっていた。およそ270km/hで地面に叩きつけられたのである。機体は墜落して、凍りついた土の上を170mも滑っていた。そして農場主の所有するフェンスに激突し、鉄の塊となって積み重なった。

 ホリーとヴァレンスの遺体はすぐそばにあり、ビッグ・ボッパーのものはフェンスを越えて隣のトウモロコシ畑に投げ出されていた。ピータースンは機体に閉じ込められていた。サーフ・ボールルームの支配人キャロル・アンダーソンはその日、ミュージシャンたちを空港へと送り、離陸するところもみていた。遺体が本人たちだと確認したのも彼だった。検視の結果、4人は脳への「強い衝撃」によって即死したことがわかった。ホリーの遺体は、フェイクレザーの黄色いジャケットをまとっていたが、背中にある4つのシームはほぼ完全に裂けていた。頭蓋骨は額の中央付近で裂け、頭頂部にまで達しており、脳組織の半分が欠損していた。両耳から出血があり、顔面には複数の裂傷があった。骨格への激しい衝撃で、胸部は硬度を保っておらず、両足は複雑骨折していた。

 調査官の下した結論によれば、この墜落は悪天候とパイロットのミスが重なって発生したものである。ピータースンは制度的にはまだ計器類の訓練を受けている途中であり、悪天候を飛ぶための力量が問われている段階だった。つまりベテランに頼らず、さらに目視ではなく計器を確認しながら飛ぶことが要求される場合には力不足だったのだ。民間航空委員会(CIV)の最終報告には、ピータースンは飛行機に備えつけられる水平姿勢指示器の訓練中であり、ボナンザに搭載されたスペリー・ジャイロコンパスはすでにまったく一般的でなかったと記されている。重要なのは、飛行機のピッチ姿勢を示す計器は二つあり、それぞれ正反対の表示方法を採用していたということだ。つまり委員会は、ピータースンが実際には機体は下降しているのに、上昇していると考えたのではないかとしている。またピータースンはルート上の悪天候に適切な注意を払っていなかったとも考えられている。もし彼が自分の分をわきまえていたら、飛行を延期していただろうということである。

 2007年、ビッグ・ボッパーの息子が、父への検死結果について再調査をおこなった。これは墜落の2ヶ月後にトウモロコシ畑でホリーの22口径の拳銃が発見されたという有名な逸話にも関わっている。つまり再調査は、偶然に銃が暴発したため墜落が起きたのではないかという疑問に答えるためのものだった。またビッグ・ボッパーの遺体が現場から離れていたため、彼は残骸から歩いて抜け出すことができた可能性も考えられた。しかしビッグ・ボッパーの遺体は保存状態こそよかったが、「ひどい骨折」のため、墜落の衝撃で絶命したことが裏づけられた。


 1950年代を愛するウィスコンシン州の男性ケン・パケットは、1988年に鋼のギターをかたどったステンレスのモニュメントをつくった。そこでは3人のアーティストたちの名前を冠したそれぞれのレコードもモチーフにされている。このモニュメントはクリアレイクから北へ8kmの、とある農園に置かれている。墜落現場の入り口には角枠の眼鏡をかけたポストサインがある。またパケットは3人のアーティストに捧げるステンレスのモニュメントをウィスコンシン州グリーンベイのリバーサイド・ボールルームにもつくっている。そこはバディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーの3人が1959年2月1日の夜に演奏をした場所である。二つ目の記念碑の除幕式は2003年6月17日に行われた。2009年2月にはパケットによって新たなモニュメントがつくられた。これはパイロット、ロジャー・ピータースンへ向けたもので、やはり墜落現場に設置された。