高野公男

高野公男(たかのきみお 本名:高野吉郎 1930年2月6日生)
 [作詞家]



 茨城県出身。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)在学時に作曲家の船村徹と出会い、作詞家活動を開始。当初はビクターレコード専属の作詞家としてデビューしたもののこれといったヒット曲もなく、鳴かず飛ばずの状態が続いたがもう後がないと思って売り込みに行ったキングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にとまり、春日の歌唱による『別れの一本杉』が50万枚のセールスを記録する大ヒットとなり一躍名の知られる作詞家となった。

 その後コロムビア専属となっても、船村とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。高度経済成長時代の当時、田舎のにおいが感じられる公男の詞による曲は集団就職などで都会に出てきた若者たちの心をとらえた。

 しかし1955年、『別れの一本杉』のヒットから間もなく公男は肺結核に侵され翌年9月8日、国立水戸病院で26歳の若さで帰らぬ人となった。この公男の若すぎる死を悼み、後に彼の生涯は松竹から『別れの一本杉』という題名で映画化された。

 1956年9月8日死去(享年26)