キャス・エリオット

キャス・エリオット(Cass Elliot 本名:エレン・ナオミ・コーエン 1941年9月19日生)
 [アメリカ・歌手]



 エレン・コーエンはメリーランド州ボルチモアで生まれ育ち、ワシントンD.C.郊外のバージニア州アレクサンドリアのハイスクール時代に「キャス」と名乗り始めた。これはおそらく女優のペギー・キャスに由来している。その後、彼女は亡くなった友人を悼み、エリオットという姓を用いるようになった。

 エリオットはまだ学生の時に、ミュージカル『ザ・ボーイフレンド』で初舞台を踏んだ。卒業直前にジョージ・ワシントン高校を中退し、ニューヨークで『恋するミュージック・マン』に出演した。

 その後、グリニッジ・ヴィレッジの「ショープレイス」のクローク係として働きながら時折歌っていたが、本格的に歌手としてのキャリアを追求し始めたのは、アメリカン大学に通うためにワシントンD.C.に戻ってからである。アメリカのフォークミュージックシーンが盛り上がりを見せる中で、エリオットはバンジョー奏者で歌手のティム・ローズと歌手のジョン・ブラウンに出会い、3人は「トライアムヴィリート」として活動を始めた。1963年、ジェームズ・ヘンドリックスがブラウンの代わりに加入し、トリオは「ビッグ・スリー」と名前を変えた。エリオットの「ビッグ・スリー」としての初のレコーディング、「Winkin', Blinkin' and Nod」は、1963年にFMレコーズよりリリースされた。

 1964年にティム・ローズがビッグ・スリーを去り、エリオットとヘンドリックスはカナダ人のザル・ヤノフスキーとデニー・ドハーティと組んで「マグワンプス」を結成した。このグループは8ヶ月続き、その後はキャスはしばらくソロで活動した。ヤノフスキーはジョン・セバスチャンと組んで「ラヴィン・スプーンフル」を結成し、ドハーティはジョン・フィリップスと彼の妻ミシェルのいる「ニュージャーニーメン」に参加した。1965年、ドハーティはキャスをグループに加入させるべきだとフィリップスを説き伏せた。彼らがヴァージン諸島で休暇を過ごす間に、彼女は正式に加入した。それによりバンドの新しい名前が必要となり、エリオットのインスピレーションによって「ママス&パパス」となった。

 エリオットに関する有名な伝説は、彼女がヴァージン諸島でグループに加わる少し前に銅管で頭を打ったことで彼女の音域が3音近く広がったというものである。エリオット自身が、この話を認めている。しかしエリオットをよく知る人々によれば、これは真実では無い。エリオットは昔から傑出した歌声の持ち主であったという。

 ユーモアのセンスと楽観主義で知られたエリオットをグループ内で最もカリスマ性のあるメンバーだと考える人は多かった。彼女の暖かく独特な声は、彼らの成功における大きな要因であった。彼女はグループのビルボードヒット「夢のカリフォルニア」、「マンデー・マンデー」、「愛の言葉」におけるボーカルによって、そして特に「私の小さな夢」における独唱によって人々の記憶に刻み込まれている。

 1971年に契約が切れ、ママス&パパスは解散。その後、エリオットはソロ歌手としても成功した。彼女の最もヒットした曲は、1968年にダンヒル・レコーズよりリリースされた、同名のソロアルバムからのシングルカット曲「私の小さな夢」である。これは元々は同年にレコーディングされ発売されていた、ママス&パパスのアルバム『The Papas & The Mamas』の収録曲である。エリオットは週40000ドルという破格のギャラでラスベガスのシーザーズ・パレスで短期間ショーの主役を演じたが、彼女の公演は高い評価は得られなかった。

 1970年代、エリオットはテレビのトーク番組やバラエティー番組の常連であった。1970年代前半を通じて、女優としてもキャリアを重ねていき、多くのテレビにゲストスターとして出演した。

 エリオットは2回結婚している。初婚の相手はバンド仲間のジェームズ・ヘンドリックスで、1963年に結婚した。この結婚はベトナム戦争の間、彼が兵役を避けるための偽装結婚だったと言われ、初夜を迎える事なく1968年に無効となった。1971年にはジャーナリストのロナルド・フォン・ヴィーデンマン男爵と結婚した。フォン・ヴィーデンマンはドイツ・バイエルン州の男爵家の継承者だった。この結婚は数ヶ月で破局し離婚に到った。また、エリオットは1967年4月26日にオーエン・ヴァネッサ・エリオットという女の子を出産した。エリオットは娘の父親を決して明かさなかった。

 1974年、エリオットはソロ活動の絶頂期に、ロンドン・パラディアム劇場で満員となった2回のコンサートを開いた後、ロンドンの自室で床に付き、睡眠中に心筋梗塞で死去した。

 彼女の遺体が発見された直後の警察の発表では、彼女の部屋で食べかけのサンドイッチが発見され、これを食べている時に窒息した可能性が語られている。検死官による検死の結果、気管に食物は発見されず、死因は心筋梗塞であり、睡眠中の死であったと断定された。しかし、その時には既にもっともらしい噂が広まっており、本当の死因が話題になることは殆ど無かった。これによりエリオットがハムサンドを喉に詰まらせて死んだという都市伝説が生まれた。

 エリオットの死後、妹のリア・カンケルが、7歳になったばかりの娘、オーエンを引き取った。カンケルもまた歌手であり、「コヨーテ・シスターズ」のメンバーとして、1984年に「Straight From The Heart(Into Your Life)」というシングルをヒットチャート入りさせている。

 1974年7月29日死去(享年32)