オノフレ・マリモン

オノフレ・アグスティン・マリモン(Onofre Agustin Marimon 1923年12月19日生)
 [アルゼンチン・レーシングドライバー]



 ブエノスアイレス州サラテ出身。1951年第4戦フランスGPにてプライベート・マセラティのスクデリアミラノ・チームからスポット参戦し、F1デビュー。結果はリタイヤに終わっている。その後暫くF1との縁がなくなるが、1953年には非選手権のローマGPで優勝。選手権にもマセラティで本格復帰となり、その初戦となった第4戦ベルギーGPでは3位に入り、初入賞を表彰台で飾った。

 1954年もマセラティから参戦。リタイヤが続いていたが、第5戦イギリスGPでは予選28位から追い上げ3位に入った。この際にファステストラップも記録した。ようやく波に乗ったかに思えた矢先、イギリスGPに続いて開催された第6戦ドイツGPにて、予選中にクラッシュを起こした。マシンから投げ出されその下敷きとなったマリモンは胸を圧迫されて死亡した。1950年に創設されたF1選手権において、初の死亡事故となった。

 マリモンは同胞の先輩であるファン・マヌエル・ファンジオの弟子・子分的存在であり、ヨーロッパ留学を始めた頃から、彼に面倒を見てもらっていた。それ故マリモンの事故死がファンジオに与えたショックは余りに大きく、悲報を聞いたその場で引退を決意したが、チームとの契約により許されなかったという。

 1954年7月31日死去(享年30)