関屋敏子

関屋敏子(せきやとしこ 1904年3月12日生)
 [声楽家/作曲家]



 実業家の父・関屋祐之介、母・愛子の娘として東京都に生まれる。父方の家系は二本松藩の御殿医であり、母方の祖父はフランス系アメリカ人外交官シャルル・ル・ジャンドル、母方の祖母は池田絲である。伯父は十五世市村羽左衛門。

 4歳のころから琴や舞踊、長唄に親しみ、旧制・東京女子高等師範学校附属小学校(現在のお茶の水女子大学附属小学校)に入学、1912年、同校の3年生の時、皇后陛下御前演奏に独唱者として立ち、『春が来た』、『富士の山』を歌う。続いてオペラ歌手の三浦環に師事、1914年、初めての発表会を行い、アントニオ・ロッティ作曲の『美しい唇よ、せめてもう一度』をイタリア語で独唱し、翌朝の『都新聞』に「天才音楽少女」と報道された。三浦の推薦により、アドルフォ・サルコリに声楽を学ぶ。1921年、17歳で東京音楽学校声楽科(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学するが、同校の主流はドイツ系であり、イタリア系声楽を学んだ敏子は異端視され、中途退学してサルコリに再び師事する。

 作曲を小松耕輔に学び、1925年デビュー。1927年、イタリアに留学、翌1928年、ボローニャ大学から日本人初のディプロマ(特別卒業証書)を取得する。オーディションに合格してミラノのスカラ座に入団、プリマドンナとして活躍、ドイツやアメリカからも主演の出演要請を受け、各地を回った。1929年に帰国する。

 1930年、オペラ『椿姫』で藤原義江と共演、同年10月1日、帝国キネマ演芸が、26歳の敏子を主演に、鈴木重吉を監督に製作したイーストフォン式トーキー『子守唄』を公開する。同作は敏子の最初で最後の映画出演となった。

 その後再度欧米に渡る。自作の日本歌曲なども紹介、1933年、パリで自作オペラ『お夏狂乱』を発表する。翌1934年帰国、『お夏狂乱』を歌舞伎座で日本初演する。1937年、柳生五郎と結婚するが、4年未満で離婚した。

 1941年11月23日未明、自宅で睡眠薬により自殺した。自殺の原因として離婚、うつ病、作曲の行き詰まり、声の衰えなどいろいろと取りざたされた。作曲した『野いばら』の楽譜の裏表紙に遺書を遺す。

 ●楽譜の裏に残した遺書
 関屋敏子は、三十八歳で今散りましても、桜の花のようにかぐわしい名は永久消える事のない今日只今だと悟りました。そして敏子の名誉を永久に保管していただき、百万年も万々年も世とともに人の心の清さを知らしむる御手本になりますよう、大日本芸術の品格を守らして下さいませ。 ―関屋敏子、遺書

 1941年11月23日死去(享年37)