藤井将雄

藤井将雄(ふじいまさお 本名:藤井政夫 1968年10月16日生)
 [プロ野球選手]



 1968年に福岡市西区今宿に生まれるが1979年、父母の別居により姉・妹と共に母の出身地である唐津市湊へ転居。母は呼子朝市で働き、将雄をはじめ三人の子を女手一つで育てた。なお、父は別居状態のまま1985年急病で、美容師となった姉もプロ入り直前の1994年1月に交通事故で他界している。

 高校卒業後、日産自動車九州に入り、エースとして活躍。1994年にはチーム初の都市対抗野球出場とベスト8、社会人野球日本選手権の出場に大きく貢献した。その年、ドラフト4位指名で福岡ダイエーホークスへ入団。1年目は途中から先発を任され、西武ライオンズ戦で完封も記録。しかしその後は伸び悩み、3年目から中継ぎに転向。1997年オフには、プロ野球脱税事件への関与が発覚するが、1998年は右の中継ぎエースとして活躍する。

 そして1999年も「炎の中継ぎ」として活躍し、当時のパシフィック・リーグ最多ホールド記録を樹立し、ホールド王のタイトルを獲得。ダイエーのパ・リーグ優勝の原動力となる。本人も、入団当初の目標であった「王監督を胴上げする」ことを達成した。しかし同年の夏頃から、マウンド上で咳き込むなどの行動が見られるようになり、周囲は「登板過多による疲れではないか」としていたが、日本シリーズ前の身体検査で異常が見つかり、シリーズ後に入院。本人には知らされなかったが、病状は「余命3ヶ月」の末期と診断された肺癌であった。

 藤井が末期癌であることを知っていたのは、家族、当時の中内正オーナー代行・瀬戸山隆三代表などフロント上層部、王監督や一部の首脳陣や、個人後援会の面々、その後援会長から病状を直接知らされた親友の若田部健一など一部チームメイトなど、ごくごく身近の者のみだった。「マウンドに上がるという気持ちがあれば、気力で病気を克服できるかもしれないから」という家族の懇願もあり、本人には間質性肺炎と偽った病名を伝えた。

 その為メディアやファンの間でも、藤井の病気は間質性肺炎と思われていた(間質性肺炎自体も、大変重い病気である)。球団首脳もその意向をくみ取り、本来戦力外=解雇となっても不思議ではないところを、優勝に貢献したということも踏まえ年俸倍増で契約を交わした。藤井は同年11月に行われたV1記念パレードの翌日に入院した。

 翌2000年シーズンは入退院を繰り返しつつ、一時は二軍の練習に参加し、二軍戦6試合に登板するまでに回復を見せる。最後のマウンドになるかもしれないことが伝えられていた王監督からは「今すぐ一軍に上がって来い」という電話がかかっているが、藤井は「二軍で結果を出せていないのに一軍に上がることなど出来ない」と固辞。その後一軍マウンドに登る事は無かった。6月末に再入院(入院先に選ばれたのは、福岡ドームの隣接敷地に位置する国立病院機構九州医療センターである)。

 以後も自身のウェブサイトに日記を掲載し、優勝を間近にしたナインに檄を飛ばし続けた。9月4日に再入院。10月には心臓、肺にも水がたまった。見舞客の話では、藤井は肺から管を通し、ベッドから起き上がることもできない状態だったという。チームのV2を見届けた後、32歳の誕生日を3日後に控えた10月13日に容態が急変し、そのまま亡くなった。31歳という若さだった。

 福岡ドームのロッカールームには、藤井入院のころから背中に「FUJII」「15」と手書きされたハリーホーク人形が置かれている。藤井ハリーと呼ばれるこの人形は、優勝が近づくとベンチに置かれ、胴上げにも毎回加わっている。この藤井ハリーは、チームがダイエーからソフトバンクに移行してからも、ユニフォームを着替えて現在もロッカーに飾られている。彼の背番号15にちなみ、福岡ドームの15番通路は「藤井ゲート」と呼ばれ、記念プレートと藤井の最後のメッセージ(個人ホームページに掲載された「皆様へ」で始まるメッセージ)が入り口に掲げられている。

 2000年10月13日死去(享年31)