片岡仁左衛門(12代目)

12代目片岡仁左衛門(かたおかにざえもん 本名:片岡東吉 1882年9月9日生)
 [歌舞伎役者]



 8代目片岡仁左衛門の娘の子で、10代目片岡仁左衛門の養子。東京出身。1885年東京・千歳座で本名の片岡東吉で初舞台を踏み、その後2代目片岡土之助を経て1901年4代目片岡我童を襲名。1936年、東京・歌舞伎座『馬切』の織田信孝で12代目片岡仁左衛門を襲名。この当時、東京歌舞伎では女形が不足していたため、関西歌舞伎の仁左衛門も招きを受け、15代目市村羽左衛門の相方を多く務めた。当り役に『生写朝顔話』の深雪、『壇浦兜軍記・琴責』の阿古屋などがある。

 戦後まもない1946年3月16日、東京都渋谷区の自宅で夫人(元日活女優の小町とし子、当時26歳)、三男(当時2歳)、女中2人(当時12歳と当時69歳)とともに殺害されているのが見つかる。5人とも頭を薪割り用の斧で殴られていた。捜査線上に浮かんだのは、同居していたが事件以後は行方不明となっていた女中の兄・飯田利明(当時22歳)だった。捜査本部は飯田を指名手配。3月30日、飯田は逮捕された。捜査によって、犯行動機は当時の食料事情の悪さなどから1日2食(合計米1合3勺程度)しか与えられていなかったことと、夫人との諍いや仁左衛門が男を罵倒したことが犯行の動機になったと推定された。

 飯田はそれまでに精神障害の既往はなかったが、取り調べで事件当時の記憶が欠落していることが明らかとなったため東京大学精神科教授内村祐之による精神鑑定が行われた。鑑定結果は、激しい情動のため一時的な意識障害をおこしていたことを示唆するものであった。一方内村とは別に精神鑑定を行った菊池甚一は、少なくとも2人目以降の殺人については一時的に精神病状態であったと結論づけた。

 1947年10月22日、飯田は無期懲役の判決を受けた。求刑は死刑であり、5人を残虐な手段で殺害しており、完全責任能力が認められれば死刑相当の事件であった。この減刑について、一般には精神鑑定により心神耗弱状態だったと認定されたためとの説が流布されているが、実際の判決では全ての行為について責任能力を肯定すべきであるとしており、内村、菊池いずれの鑑定も採用されていないし、刑法39条の適用もしていない。にも係わらず死刑判決にならなかったのは、低栄養や片岡家における葛藤、犯行前夜からの紛争、不眠等の理由で、飯田の感情が著しく興奮して安定を失っていたことを考慮したものとのことである。

 1946年3月16日死去(享年63)