九州山十郎

九州山十郎(きゅうしゅうざんじゅうろう 本名:中西十郎 1889年5月12日生)
 [大相撲力士]



 福岡県生まれ。地元・福岡の遠賀川で船頭をしていたが、大の相撲好きが高じて草相撲の大関を張っていた。1911年のある日、佐賀県へ常陸山谷右衛門の一行が巡業に来た際に見に行くと、その場にいた両國梶之助からスカウトされて出羽ノ海部屋へ入門、同年6月場所に幕下付出で初土俵を踏んだ。「草相撲の大関」という看板は伊達ではなかったのか、1914年1月場所では早くも十両昇進、さらに1915年6月場所で新入幕を果たした。この時にスカウトした両国梶之助が引退して入間川部屋を創設したため、移籍している。

 入幕後は2場所で僅か2敗(うち2預1休)しかしていない好成績を挙げ、1917年5月場所で小結、1918年1月場所で関脇、同年5月場所で大関へそれぞれ昇進した。1月場所の成績は4勝3敗1預2休と平凡だったが、この場所で大関だった栃木山守也が横綱に昇進したことで大関が空位となったことで運良く昇進できたものだった。しかし、新大関の場所を1勝1預8休と途中休場し、1919年1月場所は5勝5敗でありながら同年5月場所で小結に降格してしまい、せっかく昇進した大関の地位を僅か2場所で明け渡すことになった。それ以降も病気のために急速に衰え、1922年1月場所を最後に現役を引退した。これだけ早く衰えたのは日頃からの大酒が祟ったからだと言われている。

 引退後は年寄・稲川を襲名したものの、なおも病魔に襲われ続け、37歳の若さでこの世を去ってしまった。

 1927年1月7日死去(享年37)