オタ・ベンガ

オタ・ベンガ(Ota Benga 1883年頃生)
 [コンゴ・ピグミー族]



 オタ・ベンガは当時ベルギー領であったコンゴのカサイ川にほど近い赤道直下の熱帯林でムブティ族の一員として暮らしていた。彼の仲間はベルギー王レオポルド2世の創設した公安軍に殺された(この部隊は、コンゴの現地人を統制するとともに豊富に産出するゴムを搾取するための組織だった)。ベンガは妻と二人の子供を失ったが、公安軍が村を攻撃してきたときは狩りで遠出していたため運良く生き延びることができた。奴隷商人に捕まったのはその後である。

 アメリカ人の実業家であり宣教師でもあったサミュエル・フィリップス・ヴェルナーは、セントルイス万国博覧会からピグミー族の集団を展示品の一部にするため連れ帰るという仕事を請け負い、1904年にアフリカへと出発した。ヴェルナーがオタ・ベンガを発見したのはバトワ族の村へ向かう途中だった。ヴェルナーは奴隷商人と交渉の末1ポンドの塩と1反の織物と引き換えにベンガを解放させた。ヴェルナーと自由の身となったベンガの二人は村へ到着するまでの数週間を共に過ごした。やがて二人の間には友情が芽生え始め、同時にベンガにはヴェルナーがいた世界への好奇心が高まっていき、アメリカに行くことを了承した。

 1904年6月、ミズーリ州セントルイスで開かれた万国博覧会の人類学展で展示品となったベンガはすぐに注目の的になり、非常に人気者となった。ベンガの愛想のよさも手伝ってか、来場者は熱心に彼の歯を見ていこうとした。彼の歯は儀式を兼ねた装飾として幼い頃に先が鋭く磨がれていたのである。アフリカ人たちは写真やパフォーマンスに金をとることを学んでいて、ある新聞の記事ではベンガを「アメリカで唯一人の正真正銘の人食い人種」として売り出し、「(彼の歯は)観光客が払う5セントの見物料の価値はある」と主張していた。

 ベンガは1906年にもブロンクス動物園に設置されて物議を醸した人間動物園の呼び物となった。ブロンクス動物園では構内のサル園に「展示」される時間帯以外は自由に敷地を動き回ることができたが、このように非西欧人を人類の進化における「初期段階」の生きた標本として展示することは、進化生物学の概念と人種理論がなめらかに結びつくこともしばしばであった20世紀はじめには奇習としては扱われなかったのである。

 一方で全国のアフリカ系アメリカ人向けの新聞はベンガの扱いに強く抗議する論説を発表し、黒人教会代表団のスポークスマンであるR.S. マッカーサー博士がニューヨーク市長にベンガの解放を求める嘆願書を提出した。最終的に市長はベンガを解放してジェームズ・M・ゴードン牧師の手に委ねた。ブルックリンのハワード黒人孤児院を監督するゴードンは居室を提供するだけでなく、同じ年に彼がバージニアで保護が受けられるように手配し、金を用立ててアメリカ人と変わらない衣服を身につけさせ歯に被せものをさせたためベンガは地域社会の成員になることができた。

 その後ベンガは家庭教師に英語を教わり、タバコ工場で働き始めた。背こそ低かったが、タバコの葉をとるために梯子なしでポールを登ることができるベンガはすぐれた労働力だった。そしてこの頃の彼はコンゴに帰る計画を立てはじめていた。

 しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発し、コンゴに帰国することは不可能になった。かねてからの願いが絶たれたベンガは憂鬱状態に陥った。1916年3月20日、32歳のベンガは儀式にみたてて炎を燃やし、歯の被せものを削り落とし、盗んだ拳銃で自分の胸を撃って死亡した。

 1916年3月20日死去(享年32)