トージョー・ヤマモト

トージョー・ヤマモト(Tojo Yamamoto 本名:ハロルド・ワタナベ 1927年生)
 [アメリカ・プロレスラー]



 ハワイ州出身の日系アメリカ人。第二次世界大戦後、アメリカ軍の憲兵として日本に駐留。退役後の1953年、P・Y・チャンのリングネームでハワイにてデビュー。1955年7月には全日本プロレス協会に来日、山口利夫に挑戦した。その後、旧日本軍の陸軍大将・東條英機と海軍大将・山本五十六からリングネームを拝借し、トージョー・ヤマモトと改名。法被と竹刀、膝下までのロングタイツ(通称「田吾作タイツ」)に高下駄を履き、グレート東郷スタイルの日系人ヒールとなって南部エリアで活動する。1961年11月16日、NWAフロリダ地区で日本人レスラーのタロー・ミヤケこと三宅多留次と組み、エディ・グラハム&ディック・スタインボーンからUSタッグ王座を奪取した。

 1963年より、ニック・グラスの主宰するテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区に定着。1966年10月には海外武者修行中だった上田馬之助(プロフェッサー・イトー)をパートナーに、同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得している。以降も1960年代後半から1970年代全般にかけて、試合スタイルが荒っぽいことから「無法地帯」と呼ばれたテネシーで活躍。様々な相手と流血の喧嘩試合を繰り広げた。

 1980年代に入り、ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーのCWAがニック・グラスのプロモーションを吸収してからは、同団体にてヒールのマネージャーも兼任。全日本プロレスからアメリカ武者修行に来ていた若手時代の大仁田厚(ミスター・オーニタ)と渕正信(マサ・フチ)も1981年に担当し、彼らにAWA南部タッグ王座を奪取させ、ロックンロール・エクスプレス、オースチン・アイドル、ココ・ウェア、エディ・ギルバートらとの抗争を指揮した。以降もCWAおよび後継団体のUSWAにて活動を続け、晩年の1989年には、かつての自身のリングネームを冠した日系人ギミックのP・Y・チューハイや、新日本プロレスの若手だった橋本真也(ショーグン・マサムネ)と笹崎伸司(サムライ・シンジ)のマネージャーも務めた。

 1991年に腎臓病と糖尿病を患い引退。翌1992年2月19日、テネシー州ナッシュビルの自宅アパートにてピストルでこめかみを撃ち抜いて自殺した。プロレスができなくなったことで、ひどく落ち込んでいたとみられ、手書きの遺書と病気の際に優しく接してくれたアパートの管理人への感謝を綴ったメモ書きが残されていたという。生前はトレーナーとして選手の育成も手掛け、古くはジェリー・ジャレットをコーチしたほか、トミー・リッチ、ボビー・イートン、ジェフ・ジャレット、シッド・ビシャスなどがヤマモトの指導のもとデビューしている。

 1992年2月19日死去(享年65)