ラッキー・デューベ

ラッキー・フィリップ・デューベ(Lucky Philip Dube 1964年8月3日生)
 [南アフリカ・歌手]



 南アフリカ共和国東トランスファール州エルメロ生まれ。出生時、既に両親は離婚しており、デューベは母親サラによって育てられた。サラは彼を生むまでに何度か流産を経験していたため、この出産を大変幸運なことだと考え彼を「ラッキー」と名づけた。母親が出稼ぎに出ていたため、デューベは兄弟姉妹のサンディとパトリックと共に、幼少期の多くの時間を祖母の下で過ごした。デューベは1999年のインタビューにおいて祖母のことを「責任を持って自分を育ててくれた、今でも自分が一番愛している人」と語っている。少年時代のデューベは植木職人として働いていたが、成長するにつれその仕事では家族を養うに充分な収入を得ることは難しいと考えるようになり、学校に通い始めた。そこで彼は聖歌隊に加わり、またそこで出会った友人らとスカイウェイ・バンドというバンドを結成した。また、デューベがラスタファリ運動に出会ったのもこの時期であった。

 18歳の時、彼のいとこもメンバーにいたムバカンガバンド、ラヴ・ブラザーズに参加した。デューベは学業に加え、ミッドランドにあるHole and Cooke社の自動車オークション会場の警備員として働きながらバンド活動を続けた。徐々に人気を増したラヴ・ブラザーズは音楽プロデューサーのリチャード・シルマに見出され、ティール・レコードと契約した。このときデューベはまだ在学中であったため、学校休暇期間中にレコーディングを行った。このときの作品はレコード会社の意向で結果的に『Lucky Dube and the Supersoul』というタイトルでリリースされた。このファーストアルバムがヒットしたので、すぐにセカンドアルバムもリリースされた。この頃からデューベは作詞と英語の勉強をし始めた。5枚目のムバカンガのアルバムを発表した頃、後にデューベのサウンドエンジニアとなるデイヴ・セガールはデューベにソロ活動を始めることを勧めた。デューベはセガールの提案を受け入れ、以降のアルバムは全てラッキー・デューベのソロ名義でリリースされることとなった。さらにデューベはこの頃、コンサートでレゲエを演奏すると聴衆のうけがよいことに気がつき始めていた。本場ジャマイカのジミー・クリフやピーター・トッシュらのレゲエに影響を受けたデューベは、アパルトヘイト政策下の南アフリカで社会的・政治的なメッセージの込められたレゲエを歌い始めた。新しいジャンルに挑戦することを決めた彼は1984年にミニアルバム『Rastas Never Die』をリリースした。しかし、彼のムバカンガ作品が平均3万枚売れていたのに対し、本作はたった4千枚しか売れなかった。これは当時反アパルトヘイト運動に敏感だった南アフリカ当局が本作を発売禁止にしたからであった。そのような困難にも関わらずデューベはライブやレコーディングでレゲエを演奏し続け、1985年には再びレゲエに取り組んだ『Think About The Children』をリリースした。この2枚目のレゲエアルバムはプラチナム・ヒットとなり、彼は南アフリカで最も有名なレゲエミュージシャンとしての地位を確立した。

 以後もデューベは商業的にも批評的にも成功した作品を発表し続ける。1989年には『Prisoner』によってOKTVアワードを受賞すると、翌年には『Captured Live』で、さらに次の年には『House Of Exile』で3年連続受賞を達成した。1993年のアルバム『Victims』は世界で100万枚以上を売り上げた。1995年にはモータウン・レコードと契約したが、アルバム『Trinity』はモータウン参加のタブーレコーズからのリリースとなった。1996年に発表したコンピレーション・アルバム『Serious Reggae Business』は、ワールド・ミュージック・アワードBest Selling African Recording Artist賞と、ガーナ・ミュージック・アワードInternational Artist Of The Year賞を受賞した。その後の3枚のアルバムはそれぞれ南アフリカ・ミュージック・アワードを受賞した。以上の商業的成功と評価の高まりによって、デューベは世界的にツアーを行うようになり、シネイド・オコナーやピーター・ガブリエル、スティングらと共演した。さらに1991年にはジャマイカのレゲエ・サンスプラッシュに、2005年にはLIVE 8ヨハネスブルグ会場に出演した。

 2007年10月18日、デューベは彼の叔父の家に乗用車で二人の子供を送迎した直後、ヨハネスブルグ市内ロゼッテンビル地区で何者かに銃撃され殺害された。警察は物取り目的の自動車強盗として調査を開始し、強盗殺人の疑いで5人を指名手配した。2009年3月31日に容疑者のうち3名が容疑を認め、2名は逃亡を試みたが逮捕された。裁判の結果5名の犯人は終身刑に処された。デューベは25年にわたる活動を経て22枚のアルバムを発表していたが、2008年10月21日、ライコディスク社はデューベの過去のヒット曲と未発表曲を収録したコンピレーションアルバム『Retrospective』をリリースした。

 2007年10月18日死去(享年43)