吉原正喜

吉原正喜(よしはらまさき 1919年1月2日生)
 [プロ野球選手]



 熊本県出身。本荘小学校時代は、少年野球で4番・捕手を務める。熊本工業に入学すると、川上哲治と同クラスとなる。2年生で正捕手となって、1934年の甲子園に出場し、決勝戦で藤村富美男を擁する呉港中に敗れて準優勝。主将として出場した1937年の甲子園では川上とバッテリーを組むが、決勝戦で野口二郎を擁する中京商業に惜しくも敗れ、2度目の準優勝となった。また、同年に行われた第9回明治神宮中等野球大会では、痔の悪化で医師から試合に出場できる状態ではないといわれながらも、吉原は激痛をこらえて全試合に出場し、大活躍の末に中京商業に雪辱し優勝した。バッテリーを組んだ川上によると、試合後の吉原のユニフォームのスボンは、血で真っ赤に染まっていたという。

 熊本工業でバッテリーを組んだ川上と共に1938年に東京巨人軍に入団。中山武・内堀保が次々と応召して正捕手不在であった巨人の本命は吉原で、鈴木惣太郎が勧誘のために熊本まで行くほどであったが、吉原が「川上と一緒でなければ入団しない」と言ったことから、川上と揃って入団することとなったという。その後、南海が熊本工業の先輩捕手であった中村民雄を介して、吉原を入団させようと画策していたところを、鈴木は南海監督の高須一雄に対して吉原から手を引くように申し入れた。当時は南海も日本職業野球連盟への新規加盟を希望していたことから巨人の意向を無視できず、やむなく承諾したという。

 新人の1938年春季より正捕手を務め、1941年限りで退団するまで全年度で規定打数(今で言う規定打席)に到達。強肩に加え、何より闘志あるプレーでヴィクトル・スタルヒン沢村栄治、中尾輝三ら巨人投手陣を牽引。また俊足で、1940年には30盗塁(リーグ3位)を記録。打撃でも1941年には打率.250(リーグ6位)、4本塁打(同3位)の好成績をあげるなど、1938年秋季より1941年までの巨人の4連覇に大きく貢献した。

 応召のため、1941年限りで退団。第二次大戦でビルマを転戦した際、吉原の前の正捕手であった内堀保と面会を果たし、戦後の巨人再建を誓い合った。また、ビルマでは戦後巨人のエースとなった川崎徳次とも面会し、痔に苦しんでいた川崎に薬を調達したという。1944年10月10日にインパール作戦終結後のビルマで戦死したが、遺骨は発見されていない。

 1978年に野球殿堂入り。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑にも、その名前が刻まれている。また、2008年夏には、母校の熊本工業高校の野球部グラウンドのバックネット裏に、川上とともに吉原のモニュメント及び塑像が作られた。

 真面目一徹の川上と違い豪気な遊び人であった、と仲の良かった白石勝巳の著書に記されている。給料をほとんど遊びに費やし、白石に背広を二着借りて質屋に持ち込むなど、借金をしてまで遊びに行っていた一方、酒はあまり強くなかったという。無骨な顔に見られるが、性格は社交的であり、誰に対しても人懐っこかった。巨人の若手合宿所の前に住んでいた女優の高峰三枝子とは、いつのまにか家に出入りするほど親しくなっていたという。吉原と揃って入団した川上が、入団当初にスタルヒンの快速球を前にして自信喪失に陥り、前途に悲観的だったのを、吉原は励まし、力づけ続けた。ある時川上が荷物をまとめて故郷に帰ろうとしたところを、吉原が思いとどまらせたこともあった。川上はのちに一塁手に転向して「打撃の神様」と呼ばれるほど大打者となったが、「今の自分があるのは吉原のお蔭」と、熊本に帰郷する際(川上は熊本県人吉市出身)には、吉原の墓を必ず訪れていたという。

 当時の捕手としては俊足で、俊敏な動作、試合への集中力、随所に見せる闘志あふれるプレーはまさにチームの要であったと言われる。動きが俊敏で、元ヤクルトの古田敦也の様なきびきびとした動作で、チームを引っ張った。先輩選手たちにも臆することなく守備位置の指示を出し、既に大投手であったスタルヒンに気合いを入れるなど、元来リーダーシップに優れていた。天下一といわれたファウルフライの好捕でも有名。キャッチャーフライを追いかけ、後楽園球場のベンチで頭部を強打しひどく出血するも捕球、何事も無かったかのように試合に戻り、血染めの頭髪と頭皮がベンチにこびりついていた、という逸話が残されている。強肩強打とされた割に、打撃成績は平凡であったが、記録以上にバッティングに迫力があり、チャンスに強かった。

 巨人入団同期の千葉茂は「巨人に吉原以上の捕手は後にも先にもいない」とまで高く評価。フォークボールの元祖杉下茂は「文字通り巨人軍最強の捕手は吉原で、三拍子も四拍子も揃った選手だった。とてもじゃないが森昌彦は遠く及ばない。阿部慎之助でも及ばない」と語っている。捕手で俊足という点で、戦前でありながら「近代的捕手」の理想像という評価もなされている。それまで鈍重であった捕手のイメージを変えたことから、千葉茂は「小股の切れ上がった捕手」とも評した。千葉茂ら当時の関係者は「生きて還っていれば、巨人の監督は川上よりも先に吉原になっていた」と語っていた。川上は当時の吉原を評して、「足が速く、とにかく元気があるということで評判がよく、戦後のタイガースの土井垣みたいに気が強く、声が大きく、動きが良かった。打者と競争して一塁のバックアップに入ったり、足の速さで普通ならとれないフライも捕った。」と供述している。その土井垣武は、「自分がお手本にしたのは吉原さんです。すべて吉原さんの技術から学びました。」と述べている。

 吉原が現役時代に付けていた背番号「27」は、戦後の巨人軍では楠協郎・森昌彦と後輩捕手に引き継がれ、他球団では大矢明彦、伊東勤、古田敦也、谷繁元信が着用するなど、名捕手の定番の背番号になっている。

 1944年10月10日死去(享年25)