林敏夫

林敏夫(はやしとしお 1915年5月14日生)
 [俳優/歌舞伎役者]



 大阪府生まれ。祖父が初代中村鴈治郎、父が二代目林又一郎、叔父が二代目中村鴈治郎という歌舞伎一家に生まれた。1921年、7歳にして大阪・中座で初舞台を踏む。作品は『寺小屋』の「菅秀才」役であった。以来、鴈治郎一座で歌舞伎役者として活動する。役者としての活動の傍ら、旧制・浪速中学校(現在の浪速高等学校)に進学、同校を卒業したのち、18歳を迎える1933年、京都の松竹下加茂撮影所に入社する。同年11月1日に公開された冬島泰三監督の『初陣』で映画界にデビューした。同作は、白虎隊を主題にし、「新スター林敏夫」をプロモーションする意図のあった作品で、同社は林長二郎、坂東好太郎、高田浩吉といった当時のスターをそろえて、オールスター豪華配役で林敏夫の「初陣」を飾った。中野忠晴歌唱による主題歌『初陣の唄』も製作され、コロムビア・レコードから発売されたレコードのB面には、林敏夫本人と「私同様、甥、林敏夫をよろしく」という林長二郎の肉声による口上も収録されていた。各地のレコード店の店頭で繰り返し流され、盛大なプロモーションとなった。翌1934年3月8日に公開された同監督の『夜襲本能寺』では、林長二郎演じる明智光秀に助演して、森蘭丸を演じた。

 林敏夫の芝居はサイレントベースであり、以降の出演作でも、1934年12月31日に公開された井上金太郎監督のトーキーによる正月映画『侠客曾我』までは、サウンド版ないしは純然たるサイレント映画に出演をつづけた。1937年10月1日に公開された秋山耕作監督の『蒙古襲来 敵国降伏』を最後に映画界を去り、舞台に復帰。26歳になる1941年、同年に松竹下加茂撮影所を退社した、同い年の女優の北見礼子と結婚、1942年2月14日には、長男の与一が誕生した。

 1944年、召集を受けて出征、1945年8月13日、北満州(現在のロシア・沿海地方あたり)で戦死した。戦死の2日後に第二次世界大戦は終結している。

 1945年8月13日死去(享年30)