浅井孝祐

浅井孝祐(あさいこうすけ 1938年5月13日生)
 [オートレース選手]



 東京都出身。1958年選手登録。川口オートレース場所属。浅井孝祐は2007年時点、オートレース界の中では最古参の選手であった。

 2007年1月2日。この日は川口オートレース場の新年開催の初日だった。そこで悲劇は起こった。この日、浅井は第3レースに出走。その第3レースの第4周回1コーナーから2コーナーの立ち上がりで浅井のインを突いた岡崎秀二選手が半車身ほど抜け出し先頭に立った。

 この時、岡崎がインからアウト方向にラインを取ろうとし、車を少し外へ振ったのだが、浅井はインコースを走行していた為、岡崎の競走車の後輪と浅井の競走車の前輪が軽く接触してしまった。 ここで浅井がバランスを崩し落車。競走車から投げ出された浅井の体は2コーナーの外周方向へと滑っていった。

 浅井の後方を走っていた唐鎌大輔選手がこの落車をギリギリで回避したのだが、その唐鎌を捲くろうと更にアウトコースを走行していた釜本憲司選手の前方に落車した浅井が滑っていった。回避する間もなく、釜本の競走車はバックストレッチで浅井の頭部付近に衝突したのである。

 直ちにレースは停止され、不成立が宣告された。その後浅井には緊急措置が施され、意識不明の状態のまま川口市立医療センターへ収容されたが、同日午後1時4分、重症頭部外傷により殉職した。

 浅井の死はオートレース界に計り知れない衝撃と影響を及ぼした。最も危険なダート時代から選手であり続けた浅井が殉職したという事実のみにおいても衝撃的であったが、問題は、橋本和美選手の殉職からわずか2ヶ月で再び殉職事故が発生したという点である。


 この事故は、先年の橋本の事故と合わせて、エンジン・タイヤ・防具・走路などにおいて改善すべき点を多く示している。それは、「レースの高速化」という問題である。セアの導入以降、レースは高速化の一途を辿り、それを軽減する為に新型タイヤ「KR-73S」が導入された。しかし、このタイヤは旧来のタイヤに比してグリップ力等が低下しており、より滑りやすいものとなってしまった。そのため、選手が予測し得ない滑りが発生し、重大な事故に繋がる場面が多く見られるようになったのである。

 また、2006年に行われた川口の走路改修は、従来とは異なる手法が用いられた。従来のように老朽化した走路のアスファルトを一度排除してから舗装しなおすのではなく、旧来の走路の上に新たに舗装を施すという手法であったが、この手法にも問題があったと言えよう。この走路改修以降、川口の走路は急激に高速化した。走路改修後はタイヤが路面に食いつきやすく、そのためスピードが上昇する。これは従来の手法であっても変わらないが、今回の走路改修後は明らかに常識の範疇を上回る高速化が見られた。

 2007年1月2日死去(享年68)