純多摩良樹

純多摩良樹(すみたまよしき 本名:若松善紀 1943年生)
 [殺人犯/歌人]



 山形県出身。4人兄弟の末っ子で、純多摩がまだ乳児の頃、父親は1945年3月にレイテ沖で戦死した。高校進学を希望していたが貧しい家庭だったため母親に反対された。1960年からは東京で見習い大工として働き、1963年8月には一人前の大工として採用された。1967年、幼馴染のM子と再会し二人はすぐに親密になり、同棲生活を送って結婚を約束する仲になっていた。ところが、M子との結婚を母親に反対されたことや、M子が他の男性と親密になったことで、二人は破局することとなった。

 純多摩は、「結婚を約束しておきながら破局した、M子に対するうっ憤を晴らすため」M子が山形からの上京時に利用していた横須賀線の電車を爆破することにした。1968年6月16日、横須賀線上り列車・横須賀発東京行(113系)の6両目の網棚に自作の時限起爆装置付き爆弾を仕掛けた。そして、列車が大船駅手前に差し掛かったところで爆発し、その爆発で男性1人(32歳)が死亡し、14名の重軽傷者を出す惨事となった。当日は日曜日であり、行楽帰りの乗客が多かった。なお、元恋人は爆発した列車には乗っていなかった。

 警察の捜査により爆発物に使用された火薬は猟用散弾の発射薬として市販されていた無煙火薬と判明。起爆用の乾電池ホルダーが、主に受験勉強用に販売されていたクラウン社製のテープレコーダーのものであり、遺留品の検査マークから1000台以下しか出荷されていないことが判明。さらに爆弾物に包まれていた新聞紙が毎日新聞東京多摩版であり、活字の印刷ズレから八王子市・立川市・日野市方面に配られるものと判明。また、爆発物には鯱最中の箱が使用されていた。それらの証拠から、日野市に在住、猟銃免許によって散弾銃を所持しており、毎日新聞を購読していたインテリ大工の純多摩が被疑者として浮かび上がった。さらに事件前年に隣家の夫婦が新婚旅行の土産として買った鯱最中を純多摩へ渡していたことを突き止められた。

 1968年11月9日、純多摩は警察から任意出頭を求められ、証拠を提示されると犯行を自供したため、逮捕された。純多摩は横須賀線の電車に時限起爆装置付き爆弾を仕掛けたことを認めた。純多摩は草加次郎事件に影響を受けたことを訴え、自分を犯罪に誘った彼への憎しみを語り、ひたすら殺意を否認していた。「草加次郎さえ出現しなければ、列車爆破なんてやらなかった」というのが、純多摩の主張である。

 純多摩は殺人罪・爆発物使用罪・船車覆没致死罪で起訴され、1審、2審とも判決は死刑。最高裁でも上告を棄却され、1971年4月22日に死刑が確定した。純多摩は獄中でキリスト教の洗礼を受け、あるキリスト教関連の月刊誌に短歌をさかんに投稿していた。また、純多摩に盛んに面会していた支援者らの中でも、A牧師には絶大な信頼をよせており、遺骨を引き取ってほしいと懇願していた。短歌は、同じ東京拘置所の死刑囚からの影響を受けていた。特に、仙台拘置支所で、実名で歌集の出版や同人誌の主幹として活動していた牟礼事件の佐藤誠を強く意識していた。純多摩は、何度も支援者に「早く歌集を出版したい」と話していた。しかし、その都度、支援者らは「遺族の気持ちを考えて待つよう」に言った。しばらくして純多摩は「冤罪を訴える佐藤さんには、支援者が一生懸命、奔走してくれるが、冤罪の疑いが微塵もない自分には誰も奔走してくれない」と嘆き、その日以降、支援者らの面会を拒否した。

 1975年12月5日、死刑が執行された。遺骨は、遺言通りA牧師が引き取った。その後、20年を経て遺族が遺骨の引き取りを申し出、遺骨は故郷に戻った。ペンネームで歌集が出版されたのは、死から20年後だった。

 1975年12月5日死去(享年32)