ブルース・マクラーレン

ブルース・レズリー・マクラーレン(Bruce Leslie McLaren 1937年8月30日生)
 [ニュージーランド・レーシングドライバー/チームオーナー]



 曾祖父の代にスコットランドからニュージーランドに移住。9歳の時に大腿骨の主に骨頭部分が破壊されるパース病にかかり、3年間、闘病生活を送った。その後、病気そのものは完治したが、左足は右足より4cm縮んだ。この後遺症によりレーサーとなった後も左足を引きずっていた。

 ブルースの実父はニュージーランドでガソリンスタンドを経営するかたわら、オースチン・7ベースのレース車などを作るなどしていた。ブルースはその車でレースに参戦し、いきなり優勝してしまう。これ以降ブルースのレース人生が始まることになる。1958年、奨学金を掛けたGPで優勝。有望なレーサーをイギリス留学させる制度の第1号となった。イギリスF2で活躍し、同年、F1のドイツグランプリにクーパーからF2マシンで参戦し、5位に入っている。

 1959年にクーパーからF1デビューを果たし、最終戦のアメリカグランプリで初優勝。22歳と104日での優勝は、2003年第13戦ハンガリーグランプリにてフェルナンド・アロンソが塗り替えるまで、43年間に渡って最年少記録だった。翌1960年も開幕戦アルゼンチングランプリで優勝。その後は優勝こそないものの、安定した記録を残した。1961年はフェラーリの年となり低迷するが、1962年には第2戦モナコグランプリで自身3勝目を挙げ、他のレースでもシーズンを通し安定した成績を記録。その後、1965年までクーパーから参戦するが、チームが低迷期を迎えており、あまり活躍はなかった。

 成功したミッドシップレイアウトという遺産を食いつぶすようなクーパーチームに疑問を感じ、1963年にテディ・メイヤー、テイラー・アレクサンダーらとプライベートチーム「ブルース・マクラーレン・モーターレーシング」を設立。1964年に創設されたタスマンシリーズにクーパーのマシンで参戦し、初代チャンピオンを獲得した。またフォードと提携し、開発とテスト・プログラムを担っていた。F1には1966年・1967年ともに参加したものの、リタイヤが多い不毛なシーズンとなった。

 1968年より友人のデニス・ハルムをチームメイトに迎え、他にも数人のドライバーが同チームから参戦するようになった。オーナーという立場であったが、ブルースは友人のハルムのNo.2という立場を喜んで引き受けたという。この年洗練されたアルミニウムモノコックシャーシの一部にチーム・ロータス独占でなくなったフォード・コスワース・DFVエンジンを使用したM7Aはデビューレースを2位で終え、第4戦ベルギーグランプリで優勝し、オーナー自らチームに初勝利をもたらした。

 1970年6月2日、グッドウッド・サーキットで1970年用のCan-Amマシン、M8Dのテストを行った。しかしその最中に、マシンの後部のカウルがウィングごと脱落してクラッシュし、死亡した。チームはテディ・メイヤーに引き継がれ活動を続け、ブルースの死去から4年後の1974年、エマーソン・フィッティパルディがF1チャンピオンとなり、初タイトルを手にした。

 生前、Can-Amマシンをベースとしたマクラーレンブランドのロードゴーイングカーを製作することを計画していた。しかし、諸事情で実現せず、更に自身の他界によって計画は頓挫してしまった。このブルースの果たせなかった夢が、後にマクラーレン・F1という形で結実した。1995年のル・マン24時間レース優勝記念として5台だけ限定生産された「マクラーレンF1-LM」は、彼に敬意を表してオレンジ一色のカラーリングを採用している。

 1970年6月2日死去(享年32)