陰山和夫

蔭山和夫(かげやまかずお 1927年1月16日生)
 [プロ野球選手]



 大阪府出身。旧制市岡中学から早稲田大学へ進学。在学時、東京六大学リーグ戦全試合に出場し、最終学年では主将を務める。リーグ通算92試合出場、341打数94安打、打率.276、2本塁打、38打点。74得点は2008年に上本博紀が83得点で更新するまでリーグ記録であった。1950年に南海ホークスに入団。翌年にはリーグ2位の打率.315を記録し、新人王に選ばれた。1953年にもリーグ5位となる.303を残すなど活躍。球を良く見る打者で四球を多く選び、高い出塁率を誇った。1951年から1953年まで3年連続で30盗塁以上を記録するなど俊足で、リーグ最多三塁打を4回記録した。守備力も高く、飯田徳治、木塚忠助らと共に「百万ドルの内野陣」を形成し、リードオフマンとしてチームに大きく貢献した。1959年に現役引退後はヘッドコーチとなり、鶴岡一人監督を支える名参謀ぶりを発揮した。1962年には途中休養した鶴岡に変わって監督代行を務めた。

 1965年、鶴岡一人監督は、かねてから構想を描いていた、球団職としてのゼネラルマネージャー設置案が立ち消えになってしまい、また、主力のひとりである広瀬叔功選手のボーナスを巡って球団と揉める出来事も起こった事から、監督退任を考えるようになっていたが、この年の日本シリーズで巨人に初の日本一連覇を阻止され、勇退を決意した。南海ホークスで1リーグ制時代から通算10回の優勝、2度の日本一に導いた鶴岡が勇退して解説者に転じた事について、「もったいない!」との声があがっていたが、サンケイスワローズのオーナー水野成夫と東京オリオンズのオーナー永田雅一が獲得を表明。これに対し、鶴岡は東京へ出向いて話を聞くということにした。

 1965年11月13日、鶴岡監督の勇退を受けて後任の監督として前ヘッドコーチの蔭山が就任することとなった。蔭山は、「南海をこのまま放っておけば、近い将来黄金時代が永久に到来しない」という現実を痛感しており、その打開策を思案していたが、ノイローゼとなり、就任後にブランデーと睡眠薬を併用なしでは睡眠できない状態であった。就任から4日後の11月17日、実母が異様な寝姿に気づき119番通報、病院に担ぎ込まれ心肺蘇生が施されたが、副腎クリーゼ(副腎急性機能不全)で急死した。「野村に何か伝えてくれ…」と担ぎ込まれた際かすれ声でつぶやいたのが最後の言葉とされている。

 蔭山新監督が亡くなった日は、鶴岡前監督が東京に出向いて水野・永田両オーナーと話をする予定日であったが、蔭山の急死を聞いた鶴岡前監督は東京行きの東海道新幹線の切符を破り捨て、「俺は、他へはいかない。」とつぶやいた。この時点で、鶴岡前監督はサンケイもしくは東京の監督を引き受けないと決意し、実際に水野・永田両オーナーも獲得を断念した。駆けつけた葬儀の席で鶴岡は「ワシが殺したようなもんや」と言った。

 蔭山の急死で、後任の監督の問題が浮上し、候補となりえる人材に柚木進・岡本伊三美がいたが、両者とも固辞し、鶴岡前監督の復帰を熱望した。鶴岡は迷ったが、勇退を撤回し、南海と3年契約を結び、監督に復帰した。翌1966年には1953年以来となるパ・リーグ3連覇に導いている。

 1965年11月17日死去(享年38)