トシェ・プロエスキ

トシェ・プロエスキ(Tose Proeski 本名:トドル・プロエスキ 1981年1月25日生)
 [マケドニア・歌手]



 ユーゴスラビア連邦内マケドニア社会主義共和国(現マケドニア共和国)プリレプ出身。12歳のときに、スコピエで行われた子どもの音楽フェスティバル、ズラトノ・スラヴェイチェへの出場を果たしたのが音楽への道への第一歩であった。1996年には10代の子どもの音楽フェスティバル、メルフェストに出演した。それ以降トシェは公に知られるようになり、その豊かな声量は高く評価された。トシェのファンは次第に拡大し、それ以降もトシェはスコピエフェストやオフリドのオフリドフェストなどのフェスティバルへの参加を重ね、知名度を上げて言った。トシェはマケドニアきってのソングライター、グリゴル・コプロフと協同して「Usni na Usni」(唇と唇)、「Sonce vo Tvoite Rusi Kosi」(キミの金髪のなかの太陽)など、彼のキャリア中で最大級のヒット作品となった曲を作り上げた。1999年、トシェはデビュー・アルバム『Nekade vo Nokta』(夜のどこか)をリリース。また同年、トシェは初となるソロでのコンサートをスコピエで行った。

 2000年、トシェはユーロビジョン・ソング・コンテストのマケドニア代表を選ぶ国内選考となっているスコピエフェストに参加。「Solzi Pravat Zlaten Prsten」(涙の作る黄金の指輪)を歌い、視聴者の投票により3位入賞となった(2位はカロリーナ・ゴチェヴァ、1位はXXLであった)。2003年4月にはセルビアのフェスティバル、ベオヴィジヤに参加、「Cija si」(キミは誰のもの?)を歌い優勝を果たした。この曲はマケドニアはじめとする旧ユーゴスラヴィア諸国で大ヒットとなった。2004年、トシェはユーロビジョン・ソング・コンテストのマケドニア代表に選ばれ、「Angel Si Ti」(キミは天使)を英語で歌った「Life」を歌い、14位となった。同年、人道チャリティ・コンサートなどの活動が評価され、トシェはマケドニア・ユニセフ大使に任命された。2005年、トシェの5枚目のアルバム『Po Tebe』(あなたの後)を旧ユーゴスラヴィア全域でリリースし、バルカン半島一帯で商業的大成功を収めた。アルバムはマケドニア、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの各国のチャートのトップにランクインした。

 最後のコンサートは2007年10月5日に行われ、2万人以上の観衆を集めた。収益から1万ユーロがマケドニアの小学校に寄付された。それから間もない10月16日早朝、トシェは自動車事故により、クロアチアのノヴァ・グラディシュカ近くの高速道路(A3)上で亡くなった。トシェはマネージャらとともに高速道路を走る自動車に乗っていたが、前方を走るトラックに追突し、中央分離帯に激突、トシェは首の骨を折るなどして即死であった。同乗していた2人のうち、運転手は頭に傷を負って重症となった。

 トシェの遺体は深夜にスコピエへマケドニア共和国軍のヘリコプターで輸送され、故郷のクルシェヴォへ送られた。空港やスコピエ市内の広場に大勢の市民が集まり、トシェへの最後の別れを惜しんだ。アメリカ合衆国大使、アメリカ合衆国国際開発庁、欧州連合大使が公式文書を発した。10月17日に国葬が行われることが発表され、またクルシェヴォ市は3日間の喪に服した。トシェの死後、マケドニア政府は彼を名誉国民に認定した。トシェの死が知らされてまもなく、スコピエはじめマケドニア中の市民たちが市の中央広場に集まり、ろうそくや花、メッセージを捧げた。学校や大学、スポーツクラブ、企業なども自発的に追悼キャンペーンに加わっていった。このような集まりはマケドニア国内のみならず、バルカン諸国、特に旧ユーゴスラヴィア諸国や世界各地のバルカン半島出身者(ディアスポラ)にも見られた。ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォで行われた追悼式には2千人がろうそくをともして集まった。政府は2007年10月17日、トシェの国葬を故郷のクルシェヴォで行い、マケドニア共和国軍と国家防衛隊による栄誉礼、軍楽隊、礼砲3発などを含む名誉式典が捧げられた。葬儀はMacedonian TVによって国内外へ中継され、また、大統領ブランコ・ツルヴェンコフスキ、首相ニコラ・グルエフスキ、マケドニア議会議員および議長リュビシャ・ゲオルギエフスキ、アメリカ合衆国および欧州連合の駐マケドニア大使のジリアン・ミロヴァノヴィッチ、エルワン・フエーレ、アメリカ合衆国国際開発庁、赤十字やその他の国や組織の大使らが参列した。参列者には、マケドニア国内外の有名なミュージシャンたちも名を連ねた。トシェは正教会の信者であったことにより、埋葬式はオフリド大主教ステファン率いるマケドニア正教会が行った。

 2007年10月16日死去(享年26)