青木繁

青木繁(あおきしげる 1882年7月13日生)
 [洋画家]



 明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されている。若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描き上げた一方で、名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世した。その生涯については虚実取り混ぜたエピソードが多く、半ば伝説化している。短命だったこともあって残された作品の数は決して多くはなく、代表作『海の幸』を含め多かれ少なかれ未完成の作品が多い。

 青木繁は福岡県に、旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれた。武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、「美術だと。武術の間違いではないのか」となじったという逸話が残っている。青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同い年で小学校の同級生、そして終生の親友であった。同時代人の証言や本人による『自伝草稿』によれば、青木は歴山帝に憧れる早熟な文学少年であったとされる。絵画のほかに短歌もよくし、短い生涯に多くの文章を残している。

 青木は1899年、満16歳の時に中学校の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。その後肺結核のため麻布中学を中退。1900年、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。1902年秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。1904年夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在した。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルはたねだとされている。この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。

 1905年8月、茨城県に滞在中、たねとの間に長男の幸彦(福田蘭童)が誕生した。しかし、たねとは最後まで婚姻しなかった。1907年8月、父・廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷、程なく父は亡くなった。画家としては天才と言われた青木であったが、父亡き後の家や妻子を支えるような能はなく、家族と衝突の末、1908年10月に郷里を離れて天草、佐賀など九州各地を放浪する生活に入った。この間にも創作を続け、『月下滞船』(1908年)のような佳作もあるが、持病の肺結核が悪化して心身共に衰弱し、画家としてのピークは過ぎていた。1911年3月、福岡市の病院で死去した。青木は死の床において、妻子や家族に向けて不孝を詫びる旨の遺言を遺している。

 青木の死後、坂本は遺作展の開催や画集の発行に奔走。死の翌年である1912年には東京上野と福岡で遺作展が開催され、その翌年には『青木繁画集』が発行されている。また、1948年には遺言にしたがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立された。除幕式には坂本のほか、たね、長男の蘭童も出席した。命日に行なわれるけしけし祭には、青木の短歌「我が国は 筑紫の国や白日別 母います国 櫨多き国」に蘭童が曲をつけた『母います国』が歌われる。

 1911年3月25日死去(享年28)