山崎晃嗣

山崎晃嗣(やまざきあきつぐ 1923年10月生)
 [光クラブ事件の主犯者]



 千葉県生まれ。山崎は、医師・木更津市市長だった山崎直の五男。1942年に東京帝国大学法学部に入学するが、学徒出陣により陸軍主計少尉に任官。北海道旭川市の北部第178部隊の糧秣委員として終戦を迎える。戦時中、上司の私的制裁により同級生を亡くすが、上官の命令により秘密にさせられた。

 終戦の際に、上官の命令で食糧隠匿に関与するが、密告によって横領罪で逮捕。上官を庇って懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決を受けるが、尋問時に警察から虐待された上、事前に約束された分け前に与ることが出来ず、同級生の死と共にこの事件の深い失望や虚無感が後々の山崎の人生や「人間はもともと邪悪」と記された彼の遺書に影響する。

 東大復学後は全ての科目で優を取ろうと猛勉強し、勉強や睡眠・果てはセックスに至るまで、細かく分刻みにスケジュールを記録していった。結局、全ての科目で優を取るという当初の目標は達成されなかったものの、偏執狂的とも言えるスケジュールをつける習慣は、死の直前まで続いていた。大学構内ではほとんど人と接しようとはせず、彼が心を許した友人はごく少数だったという。また、女性関係も奔放で愛人が6人いたものの、恋愛とかプラトニック・ラブとかいう感情とは全く無縁で、「誠意とはいいわけと小利口に逃げることである。私の誠意を見てくださいという言葉ほど履行されぬものはない。人は合意にのみ拘束される」と愛人の1人に告白している。結局、税務署官の恋人だった秘書の内通により、山崎は検挙されることとなる。

 1948年9月、友人の日本医科大生・三木仙也とともに貸金業「光クラブ」を設立。社長は山崎、専務は三木、常務は東大生、監査は中大生であった。周囲の目を引く画期的な広告を打ち、多額の資金を調達することに成功。集めた資金を商店、企業などに高利で貸し付けた。学生、それも東大生が中心となって経営を行っているということが業界で注目され開業4ヶ月後の1949年1月には、資本金400万円、社員30人を擁する会社にまで発展する。

 しかし、同年7月4日に山崎が物価統制令違反で逮捕(後に不起訴)されると同時に出資者の信用を失い、業績が急激に悪化。その後、名称のみ変更してさらに資金を集めようと図るも成功せず、11月24日深夜、約3000万円の債務を履行できなくなった山崎は、本社の一室で青酸カリをあおり、遺書を残して服毒自殺した。

 東京大学出身のエリートが起業して知能犯罪を犯すという典型として、その後も光クラブ事件になぞらえる新聞・雑誌記事などが散見される。1988年のリクルート事件では、清水一行がリクルート創業者の江副浩正について言及する際に山崎を引き合いに出している。また、2006年1月のライブドア事件でも、ライブドア社長であった堀江貴文が逮捕された際に同様の反応が出た。

 ●山崎が残した遺書
 一、御注意、検死前に死體に手をふれぬこと、法の規定するところなれば京橋警察署にただちに通知し、検死後法に基き解剖すべし、死因は毒物は青酸カリ(と称し入手したるものなれど渡した者が本當のことをいつたかどうか確かめられたし)死体はモルモットとともに焼却すべし、灰と骨は肥料として農家に賣却すること(そこから生えた木が金のなる木か、金を吸う木なら結構)

 二、望みつつ心安けし散るもみじ理知の命のしるしありけり

 三、出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり、秘匿なければ死亡あり、お疑いあればアブハチとらずの無謀かな、高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわれば氷カシ(借自殺して仮死にあらざる証依而如件)

 四、賃借法すべて青酸カリ自殺晃嗣、午後十一時四十八分五十五秒呑む、午後十一時四十九分......(この後に5・6文字ばかり続くものの、判読不可能)

 1949年11月24日死去(享年26)