中田治雄

中田治雄(なかたはるお 本名:中田軍治 1937年12月2日生)
 [漫才師]



 奈良県出身。住友銀行に勤務していたが、1956年に何気なく受けた東映ニューフェイスのオーディションに合格し役者を目指す。しかし、いい役どころに恵まれず断念。1961年に映画の仕事で知り合った漫才師の西川ヒノデの伴奏要員で初舞台。そこで知り合った同門の3人で漫才トリオ「リズムデッサン」を結成。千日劇場や松竹の道頓堀角座などで前座修行を積む。1964年にトリオは解散し独立、メンバーの平川幸雄とコンビを組み「Wヤング」を結成。しばらくして千土地興行から1966年に娯楽観光を経て吉本興業に移籍。

 当初はリズムデッサンと同様の音曲漫才だったが、後にしゃべくり漫才に転向。当初は平川の女キャラで売り出す。後に県名や動物、酒やタバコの銘柄などを折り込んだ洒落をふんだんに使った漫才で、1960年代の演芸ブームの波に乗り人気を得る。「やすしきよしが最も恐れた漫才師」と言われ、またビートたけしが著書で「ツービートが何年やっても追い抜くどころか追い付く事さえ出来ない」とその実力を認めるなど、後の漫才ブームの中心となった漫才師達の多くも彼らを目標としていた。

 人気絶頂の最中、楽屋ではやっていた暴力団の野球賭博に手を出した事と事業の失敗で数千万円の多額の借金を抱え、1979年10月25日、静岡県熱海市錦ヶ浦にある海岸沿いの展望台から70m下へ飛び降り自殺。展望台に置いてあったカバンには漫才の台本と「死出の旅」という遺書が残されており、「人はいさ心も知らぬ故里に死ぞ昔の香に匂ひけり」と辞世の歌が書かれ、東尋坊では知らない人に声をかけられ自殺出来なかったなどと書かれていた。亡くなった事は多くの芸人に衝撃が走った。告別式の時に平川は棺の前で号泣した。博打と事業で儲けようとしていた様だが結局は自分の意志が弱く、借金で追い詰められ最後は自決しての最期を選んでしまった。現在でも賛否両論の声がある。

 平川は入院中に悲報を聞き後を追おうとするなど、一時期重度の情緒不安状態に陥るほどのショックを受けた。結局、中田の死によってWヤングは解消。漫才ブームが到来する僅か3ヶ月前のことであった。また、11月1日には中田の母がが奈良県桜井市の巻向駅のホームにて電車にはねられ死亡した。事故か自殺かわかっていない。その後、平川はピン芸人として活動。1984年4月、吉本新喜劇の佐藤武志を誘って第2次Wヤングを結成している。

 1979年10月25日死去(享年41)