浮谷東次郎

浮谷東次郎(うきやとうじろう 1942年7月16日)
 [レーシングドライバー]



 千葉県出身。浮谷家は地元の庄屋の家柄で大地主。ガス会社や自動車教習所などを経営しており、経済的に恵まれた環境で生まれ育つ。父・洸次郎がポルシェクラブの会長を務めるほどのクルマ好きだったこともあり、幼少期からクルマやオートバイに接していた。自家用車はまだ普及率が低く、一般庶民はオートバイを購入するのも難しかった時代である。

 中学3年生の夏休みにドイツ製の50ccの2輪車であるクライドラー(50ccの2輪車は日本の法規で原動機付き自転車に分類され、当時は14歳から運転許可証を取得できた)で市川市~大阪市間を往復。大阪に滞在していた母方の祖父、堀川辰吉郎を訪ねる旅だった。当時の日本は一級国道もほとんど砂利道であり、現在に比べ信頼性の低かった自動車や2輪車で東京と大阪を旅行するのは冒険といえた。ましてや中学生の少年の一人旅である。浮谷は道中で多くの人と出会い様々な体験をしたが、その道程を体験記『がむしゃら1500キロ』の題でまとめ、私家版として本にしている。

 浮谷は私家版『がむしゃら1500キロ』をホンダ社長の本田宗一郎に送り、「あなたの息子の本田博俊さんと友人になりたい」と希望。これは本田博俊が発売されたばかりのホンダスーパーカブに乗っているのを記事で知り、興味を持ったかららしい。見知らぬ少年からの手紙と手記に心を動かされた本田は、息子の博俊に浮谷と友人になるよう勧めたという。ちなみに浮谷と本田博俊は同年齢。

 その後、実家の経済的支援もあったが、ほぼ独力でアメリカに留学。帰国後、1963年の第1回日本グランプリに出場した友人の式場壮吉や、帰国後から本格的に親しくなった生沢徹らの影響もあって、トヨタの契約ドライバーとなる。

 1964年5月の第2回日本グランプリT-Vクラスにトヨタ・コロナでレースデビュー。プリンススカイライン1500優勢と言われる中、同一車種では最速の11位にてゴール。同年9月には、トヨタの契約ドライバー、プリンス自動車ワークスドライバーの生沢、日産自動車の三保敬太郎とともに、イギリスのジム・ラッセル・レーシングスクールに入校。滞在期間は限られていたがフォーミュラカーの操縦方法等の基本事項を学び、その最後に行われた模擬レースでトップになった。浮谷はジム・ラッセル・レーシングスクールから、翌年フォーミュラに出場する際には協力するというお墨付きを貰った。

 その後はトヨタスポーツ800で活躍し、プライベートでも ホンダS600を改造したマシン「カラス」でレースに出場。1965年5月の「第2回クラブマンレース鈴鹿大会」で優勝した。同年7月18日に船橋サーキットで行われた全日本自動車クラブ選手権では、トヨタスポーツ800でGT-1クラスに参戦。4周目の最終コーナーで2位争いをしていた生沢のスピンに巻き込まれ接触し、右フロントのフェンダーを凹ませタイヤを傷つけないためにスロー走行を余儀なくされる。しかしピットでの応急処置後、鬼神のような追い上げで各マシンをごぼう抜きにし、23周目で生沢を捕らえ最終コーナーでトップに立つと、そのまま2位以下を引き離し見事優勝する。このレースの前にも、式場壮吉が主宰であるレーシングメイトからロータスレーシングエラン(26R)でGT-2レースに参戦しており、プリンス自動車のスカイライン2000GT-Bなどの強豪を相手に、安定した走りで終始他を圧倒しての優勝をとげた。このときを境にしてレースファンや関係者の間で、浮谷の名前は一躍知られることとなる。

 船橋サーキットで2レース優勝を果たした翌月の1965年8月20日、三重県の鈴鹿サーキットでの練習中、立体交差を過ぎての150R(現在の130R)で、コース上を歩いていた2人の人を避けようとして当時コース脇にあった水銀灯に激突するという事故に遭遇。衝撃でマシンの外に放り出された浮谷は、両足の骨折や頭部を強打する等の重傷を負い、翌日脳内出血により23歳の若さで没した。皮肉なことに、その日はライバルと目された生沢徹の23回目の誕生日だった。事故直後には「コースに人がいちゃ危なくて走れないよ」と語るなど意識があり、医師に「頭を打ったので調べてほしい」と伝えたと言われている。

 この事故の際、浮谷はシートベルトをしていなかったといわれる。これが怪我の程度を悪化させた一因という声もある。シートベルトをしていれば、車外放出は避けられた可能性が高いからである。友人だった生沢徹は浮谷への弔意とは別に、シートベルト非装着を批判している。

 事故の際に浮谷が乗っていたのはレース用車ではなく、「カラス」製作者である林みのるの個人車(ホンダS600)だった。浮谷のために製作途中のレース用マシンに移設するため、シートベルトが取り外された状態だったという。浮谷は林の個人車に勝手に乗り込んでコースインしたらしい。林に事故の責任はないと見る意見が一般的だが、林たちのマシン製作が遅れレース前に練習走行を行う時間がなくなり、結果として浮谷を焦らせたのではないかという意見もある(マシン製作はドライバーの浮谷も徹夜に近い状態で手伝っていたという)。林は浮谷の死に大きなショックを受け、一時的にレース界から身を引いている。

 ちなみにこの当時のレースでは、ツーリングカーやGTカーではシートベルト装着が義務化されていたが、フォーミュラカーにはシートベルトが装着されていなかった。また当時の日本の法規では、一般公道でのシートベルトの装着義務はなく(車両への装備義務もなかった)、シートベルトの重要性についての認識は現在よりはるかに低かった。

 浮谷は当時の日本人で一番F1に近いドライバーと言われたりもしたが、プロレーサーとしての活動はわずか2年足らずで目立った成績は最後の2戦程度であったこと、レーサーの命とも言える視力が弱かったこと(眼鏡やコンタクトレンズを使用)、関係者によれば実は天才型ではなく努力型であったと言われることなどから、才能や実力は未知数のままと見る意見もある。船橋のレースで浮谷に抜かれたベテランレーサー田中健二郎は、レース後に「あの坊や、そのうち大事故を起こすぞ」と危惧していたという。

 1965年8月21日死去(享年23)