田宮二郎

田宮二郎(たみやじろう 本名:柴田吾郎 1935年8月25日生)
 [俳優]



 大阪府出身。生後4日で住友財閥の大番頭だった父を失い、戦後まもなく母とも死別。そのため幼少から高校時代にかけては京都にて親族に育てられる。京都府立鴨沂高等学校を経て学習院大学政経学部経済学科卒業。学生時代は、シェイクスピア劇研究会に所属し、外交官志望だったが、大学在学中の1955年、スポーツニッポン社主催の「ミスターニッポンコンテスト」で優勝したことがきっかけで、大映演技研究所10期生として入社。長らく端役が多かったが、1961年に映画『女の勲章』の演技で注目を集めた。同年秋に勝新太郎と共演した映画『悪名』にて勝の相棒「モートルの貞」役に抜擢され、人気スターの仲間入りを果たす。また演技が評価され、1961年のエランドール新人賞を獲得した。

 1969年1月から放送が始まったクイズ番組『クイズタイムショック』の初代司会を務め、映画でのクールな雰囲気から一転したソフトなキャラクター、加えて軽快で巧みな話術ときわめて的確な番組進行が視聴者の好感を呼んだ。1972年にはテレビドラマへ本格進出。『白い影』『白い滑走路』などの白いシリーズや、山田太一脚本『高原へいらっしゃい』などの話題のドラマに主演して、立て続けにヒットを飛ばし、ドラマ界でも花形スターの座を獲得。その頃になると、自身を「日本のハワード・ヒューズになる」と公言しはじめ、ビジネスに強い興味を持ち、政財界とも接触を持つようになって、ゴルフ場やマンションの経営を行ったが失敗、多額の借金を抱えてしまう。そして次第に精神を病み、1977年3月には精神科医から躁鬱病と診断された。しかし、田宮自身は病気を認めようとせず、治療の薬も拒否したため夫人は飲んでもらおうと必死になったという。また、付き人に段ボールの箱ごと育毛剤を買いに行かせたり、ドラマの撮影シーンで髪の毛が濡れることを嫌がるなど、髪についても悩んでいたという。

 映画『白い巨塔』で主演として財前五郎を演じて以来、田宮は常に高みを目指す財前の姿に自分を重ね、自身の本名と同じ「ごろう」であったこともあり、財前五郎を演じるのは自分しかいない、原作のラスト・財前の死までを演じ切りたいと思い続けていた。しかし、躁状態に入った田宮はあれほど入れ込んでいたドラマ化への関心が薄れ、いかがわしいビジネスに熱中し始め、多額の債務を抱えてしまう。妻は弁護士と協議の上、偽装離婚することにより財産を守ったほどである。第18話まで撮影したところで撮影は1ヶ月の休暇に入り、田宮は1978年7月29日にロンドンへ旅行に出発。戻って来ないのではないかという周囲の心配をよそに9月8日に帰国したが、その時に田宮は鬱状態に入っていた。9月17日から後半の収録が始まったが、テンションが高かった旅行前とは一転し、田宮は泣き崩れてばかりでセリフが頭に入らなくなっていた。妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、共演者の協力もあって撮影は11月15日に無事終了。財前五郎の死のシーンに際して、田宮は3日間絶食してすっかり癌患者になりきり、財前の遺書も自らが書き、それを台本に加えさせた。さらに、全身に白布を掛けられストレッチャーに横たわる遺体役をスタッフの代役ではなく自分自身でやると主張してストレッチャーに乗った。収録後には「うまく死ねた」とラストシーンを自賛したという。

 『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた1978年12月28日昼過ぎ、田宮は家族と別居して一人で住んでいた港区元麻布の自宅で猟銃自殺を遂げた。残された遺書には、妻への感謝の言葉と共に、生きることの苦しみと死への恐怖が綴られ、病気で倒れたと思って諦めて欲しい、と書かれていた。この田宮の自殺は、足の指で猟銃用の散弾銃の引金を操作して自らを撃ち抜いたその方法もあいまって、非常に大きな衝撃をもって以後報道された。

 『白い巨塔』原作者の山崎豊子が書いた『華麗なる一族』(田宮も映画化された際出演)に猟銃自殺のシーンがあり、山崎は田宮の死を聞くとすぐに「猟銃でしょう。」と悟ったという。この報道渦中での放映となった『白い巨塔』終わり2話は皮肉にも更なる注目を集めることになり、視聴率は上昇し最終話は31.4%を記録、結果多くの人々の記憶に残り、視聴率的にも大成功をおさめることとなった。

 ●妻へ宛てた遺書
 私が一生涯 愛を捧げる妻 幸子
 富士山の光が目の前一杯に拡がってゆきます。生まれて初めて、胸が踊った僕の心を幸子は察してくれたのだろう。いくつかの難問をのり越えて、2人は神前に夫婦の絆を誓い合った。
 今も僕は倖せ一杯だ。
 英光と秀晃に、二人が成長すると共にその頃の記憶を、折りあるごとに、伝えて欲しい。若いから東京と京都を毎日往復出来たのだとうか。違う、あれがひとつの愛の表現だった。体力と愛が、細い細いところまで幸子に僕の全てを捧げたのだろうか。いや。今でも僕はそれを意識の中でいつでも出来るような気がする。気がするどころか、あなたの、あのこぼれるような笑顔のためなら、何度でも繰り返せると信じている。
 かごに一杯のリンゴが、目の前に積まれた時の感激を忘れない。僕は結婚以来、がむしゃらに働いた。経済的に誰にも不安を与えたくなかったから。本当は素朴なあたたかい生き方もある筈なのに、それを知りながら、働くことしか生き甲斐を知らない人間になって行った。
 いま、僕に何の趣味があるだろうか?自分と幸子とを結んでいるものを、またあの笑顔で、あるときは、おかしいほどの生真面目さで、手を組んでゆけるほどの連帯感を生むものがあるだろうか?
 すぐに答えられない恥ずかしさしか残らない。いつもいつも小心なくせに、つっぱって、つっぱって、生きている僕の姿。
 それをはらはらしながらなんとか応援しようとしている幸子の姿、心、思いやり。世の中に大声で叫びたい。誰の存在も不要なのだ。
 幸子と英光と英晃さえあれば、何も不要なのだと叫びたい。事実のとうり叫びたい。一緒に歩けば、何も恐ろしいものはない。そう思うと勇気が湧いてくる。幸子は、聡明で、力強く、それでいて最も、虚飾のない女らしい人だと僕にはよく解った。
 十二月一日の夜、青山のマンションから、僕が、麻布に戻る時、「ひとり置いてゆかないで!」と幸子は云った。涙をふきながら、そう云った幸子の顔は、いままでに見せたこともないものだった。「もちろんさ!」と僕は答えた。しかし、心の中をみすかされた僕はあなたの左手をギュッと握ることしか出来なかった。
 もう自分でもとめることは出来ないところへ来てしまった。
 生きることって苦しいことだね。死を覚悟することはとても怖いことだよ。
 四十三才まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上の倖せはないと自分で思う。
 田宮二郎という俳優が、少しでも作品の主人公を演じられたことが、僕にとって不思議なことなのだ、そう思わないか?病で倒れたと思ってほしい。事実、病なのかもしれない。そう思って、諦めてほしい。
 英光そして英晃は僕の片鱗を持っている。僕と幸子の血を受け、僕の姿の一部を持っているあの可愛い、二人を僕だと思って愛してやって欲しい。あなたの心を与えてやって欲しい。
 二人の子供は、僕以上に、あなたを倖せにしてくれる筈だ。僕はそう信じる。
 それからお母さんを大切にして上げて下さいね。僕の食事からいろいろ案じて貰った。このことは感謝に耐えられないことだ。
 僕に寄せられた少数の人の厚意は、そのまま、幸子と、英光と、英晃に向けられると思う。また、どうか、向けて欲しいと心から願っています。
 死は全てを解決するものではないけれど、無を等しくするものです。
 十字架を背負って、歩む自分の姿を思う時、死が、全てから切り離され、肉親である幸子と英光、英晃が、僕の面影を折にふれ、親しみ合ってくれればもう僕は満足なほほ笑みを空間の中からあなたたちに返礼します。
 この本一杯に、文章を書くつもりでした。でも書けば書くほど、幸子の悲しみと僕自身の悲しみが増すばかりです。最后に夫婦の契りを絶つ僕を許して下さい。二人の愛らしい子供をたのみます。
 なむあみだぶつ、さようなら
 幸子へ
 柴田吾郎

 俳優 田宮二郎

 1978年12月28日死去(享年43)