ジュディ・ガーランド

ジュディ・ガーランド(Judy Garland 本名:フランシス・エセル・ガム 1922年6月10日生)
 [アメリカ・女優/歌手]



 ミネソタ州出身。1929年、2人の姉と共にガム・シスターズの一人としてデビュー。1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約。社長のルイス・メイヤーは「デブの方を追い出せ」とプロデューサーのアーサー・フリードに命じた。つまりジュディの方を追い出すという意味であった。ところが、フリードは、当時13歳のジュディと性的関係をもっていたため、間違ったふりをしてジュディと契約を結んだのであった(フリードはジュディの歌唱力にも注目していた)。

 契約後、MGMはかなり肥満気味であった13歳のジュディに極度のダイエットを命じた。13歳にしてダイエット用の薬として覚醒剤(アンフェタミン)を常用するようになる。『オズの魔法使い』を含む、すべてのMGMのミュージカルでジュディは元気一杯で歌い踊っているように見えるが、ビリー・ホリデイがアヘンやコカインで、ジャニス・ジョプリンがヘロインで陶酔して歌っているのと同様に、実は覚醒剤の使用により「ハイ」の状態で歌っていたのである。

 1939年にミュージカル映画『オズの魔法使』で主役ドロシーに大抜擢され、人気スターとなる。一方で余りにも人気が出たため彼女のスケジュールは過密となってしまい、この映画の公開直後から覚醒剤(アンフェタミン)に加えて睡眠薬(セコナル)を常用するようになる。現在から見ると信じられないことだが、当時は睡眠薬も覚醒剤も、害が十分に分かっておらず、MGM社はセコナルとアンフェタミンをジュディに服用するよう勧めていたのである。

 一見清純で明るく健康そうな表面的なイメージとは裏腹に、1940年代初頭から神経症と薬物中毒が少しずつ確実に表面化していった。やがて1940年代の後半のある時期からは、神経症と薬物中毒による精神の不安定が仕事にも深刻な影響を与えるようになり、スタジオへの遅刻や出勤拒否を繰り返すようになる。自殺未遂事件も数回起こしたため、業を煮やしたMGMはジュディを解雇した。


 1954年、ワーナー・ブラザースで撮影された『スタア誕生』で久々の映画出演を果たす。この作品は大ヒットし、ジュディはゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞。そしてアカデミー主演女優賞にノミネートされた。1961年、彼女は7年ぶりに大作『ニュールンベルグ裁判』で映画に出演。バート・ランカスターやマレーネ・ディートリヒと共演し、変わらぬ演技力を見せてアカデミー助演女優賞にノミネートされた。また、同年行ったカーネギー・ホールでのコンサートは「ショービジネス最高の一夜」と称され、収録した『ジュディ・アット・カーネギー・ホール』はグラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞。ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞を受賞した。

 だがその後、薬物中毒と神経症は悪化。逮捕されることはなかったものの、FBIはジュディを監視していた。後に、情報公開法により膨大なFBIの監視記録が公表されている。1963年を最後に銀幕から姿を消し、離婚や結婚を繰り返し、結果として生涯に5回結婚した。


 1969年6月22日、公演のため滞在していたロンドンで、睡眠薬の過剰摂取にてバスルームで死去した(自殺説あり)。

 彼女は莫大な収入を浪費してしまっており、400万ドルの借金だけが残り、埋葬の費用にも事欠いた。ジュディを知る関係者で彼女の死に驚くものは一人もいず、むしろ予想より長くもったなというのが大方の感想だったという。没年齢は47歳であったが、長年にわたる薬物・アルコール中毒と荒淫の結果、遺体は老人のような有様であった。葬儀の時に出席者の間で、「ジュディは今回だけは遅刻をしなかったな」といういささか不謹慎なジョークが囁かれたという。

 ジュディは性体験が豊富であり、MGM時代プロデューサー全員と性的関係を結んでいたことは有名である。また、ジュディは同性愛者に対して理解を示していた数少ない有名人の一人であり、彼らのアイドル的な存在でもあった。ジュディ自身もバイセクシュアルであった。

 1969年6月22日死去(享年47)