デイル・アーンハート

ラルフ・デイル・アーンハート・シニア (Ralph Dale Earnhardt Sr. 1951年4月29日生)
 [アメリカ・レーシングドライバー]



 アーンハートはノースカロライナ州カナポリスで1951年4月29日にラルフ・アーンハートとマーサ・コールマン夫妻の間に生まれる。父親のラルフはノースカロライナ州におけるベストのショートトラック・ドライバーの一人であり、1956年にはNASCARチャンピオンを獲得している。ラルフは息子にレースドライバーにはなって欲しくなかったが、アーンハートはレースに対する夢をあきらめられず、そのために学校を退学した。アーンハートにとって父親のラルフは厳しい教師であった。ラルフは1973年に自宅で心臓発作のため死去し、アーンハートは父親に対して自らが「自立した」と感じるまで長い年月を要することとなった。

 アーンハートのレースキャリアは1975年に開始、1979年に本格的にウィンストンカップ・シリーズに出場を始めた。この時は新人賞を獲得するなど、その頭角がすでにあらわれていた。その翌年にはシリーズチャンピオンに輝き、その後は1986年、1987年、1990年、1991年、1993年、1994年にNASCARの年間チャンピオンを獲得した。

 アーンハートの所属は一時期を除いて一貫して名門リチャード・チルドレス・レーシングで活躍していた。彼のアイデンティティでもある黒の#3は1988年からであり、その時には「メン・イン・ブラック」とか「ダースベイダー」というあだ名も付けられた。1999年に息子のジュニアがレースデビューするとファンのボルテージは最高潮に達し、親子二代でのレースにファンは歓喜した。

 私生活では3度の結婚経験があり、17歳の時に一度結婚、息子のケリー・デイルをもうけるも離婚。ケリー自身も後にNASCARドライバーとなる。2回目の結婚で1男1女を設けるも離婚、この時の男の子が後のジュニアである。3度目の結婚は1988年で1女を設けた。

 2001年のデイトナ500の最終周回のターン4でスターリング・マーリンと接触、体勢を崩した所にケン・シュレーダーのマシンが右側面に衝突、シニアのマシンはシュレーダーのマシンと共に斜めにコンクリートウォールに激突、2台のマシンはそのままグリーン上へ滑り落ちて停止した。

 周囲はここまでの顛末をよくある事故としてとらえていたが、2時間後にアーンハートの死亡が報じられた。後の調査でアーンハートのマシンは時速253kmで55~59°の方向角でウォールに衝突したことが判明した(これは18メートルの高さから車を落下させた時の衝撃に相当する)。その衝撃で致命傷となる頭蓋骨底部骨折を起こし即死したとみられる。その死はスポーツ界に衝撃を与え、数多くのファンが彼の死を悼んだ。また、彼の事故死の直後、接触したと思われるスターリング・マーリン宛に一部のファンから脅迫状や悪質な嫌がらせが相次いだ。これに対して、アーンハートのチームメイトのマイケル・ウォルトリップと息子のデイル・アーンハート・ジュニアでは「彼にはまったく責任はない」と発表した。

 彼の死の影響は大きく、#3は永久欠番となった。そして、彼の死を契機にさらなる安全向上策をNASCAR、および各チームは打ちだした。まず、事故調査の結果、直接的な原因でないが不適切な取り付けがあったとされるシートベルトについて多くのチームが5点式から6点式へと変更になった。次にHANS(頭部及び頸部の保護装置)の普及が進んだ。そしてオーバルコースの外側に(トラックによっては内側にも)緩衝帯が設置された。さらに2007年からは、カー・オブ・トゥモローと呼ばれる新型車が採用され、より安全性が強化された。

 アーンハートは2010年にNASCARの殿堂入りを果たしたが、その他にも国際モータースポーツ(2006年)と米国モータースポーツ(2002年)の殿堂入りを果たしている。

 2001年2月18日死去(享年49)