サルバドール・アジェンデ

サルバドール・イサベリーノ・デル・サグラード・コラソン・デ・ヘスス・アジェンデ・ゴスセンス(Salvador Isabelino del Sagrado Corazon de Jesus Allende Gossens 1908年6月26日生)
 [チリ・第29代大統領]



 チリの港町バルパライソにバスク系の子孫として生まれる。チリ国立大学の医学生時代に社会主義にめざめ、政治活動を行って幾度か投獄を経験した。1933年にチリ社会党結成に参加、1937年に下院議員に当選、以後政治家としての道を歩む。1938年に急進党を中心とする人民戦線政府に保健大臣として入閣、その後社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」から1958年と1964年の大統領選に出馬した。1970年の大統領選挙に、アジェンデは従来の人民行動戦線から参加政党が拡大した人民連合の統一候補として出馬し、得票率が対立候補を僅差で上回り当選。人民連合を率いて世界で初めて議会制民主主義に基づく社会主義への移行を試み、アメリカ系資本下の銅産業の無償国有化、主要産業・企業の社会化、農地改革等の急進的な諸政策を実施し世界の注目を集めた。

 しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカの左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。万策尽き、行政力も権威も失ったアジェンデは国民投票に訴えようとしたが、投票が実施される直前の9月11日に、アウグスト・ピノチェト将軍が陸海空軍と警察軍を率いて大統領官邸を襲撃した。首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデはクーデター軍と大統領警備隊の間で銃弾が飛び交う中、最後のラジオ演説を行なった後死亡した。

 長年アジェンデの死因についてクーデター軍との戦闘による戦死か、クーデター軍によって殺害されたか、自殺したのか、論争があり真実が不明だったが、2011年5月23日、チリ司法当局は調査を行い長年の論争に決着をつけるため、アジェンデの遺体を墓所から発掘し鑑定した。クーデターを率いたピノチェト将軍は、アジェンデの最期について、大統領府モネダ宮殿でキューバのフィデル・カストロ首相から贈られた自動小銃を使い自殺したと発表していた。しかし、「フィデロ・カストロから私のよき友サルバドーレ・アジェンデへ」という刻印が彫られた金板が取り付けられていたとされる銃も弾も見つかっていない上、当時の軍は遺族に遺体を見せようとしなかったため、軍による射殺説も根強く残っていた。チリ政府は2011年7月19日、発掘された遺体(白骨化していた)を外国人も含む専門家チームによる鑑定を行った結果、カストロ議長から贈られた自動小銃による自殺だったことが確認されたと発表し、アジェンデの娘イザベル・アジェンデ上院議員もこの結果を受け入れることを表明した。

 このクーデター以降、クーデターの首謀者であったピノチェト将軍が大統領に就任し、チリは彼による軍事独裁下に置かれることになった。その後16年の長きに亘る軍事政権下で、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、冷戦の終結によりアメリカにとっても利用価値がなくなった軍事政権は1989年の国民投票により崩壊した。なお、一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。

 1973年9月11日死去(享年65)