名取春仙

名取春仙(なとりしゅんせん 本名:名取芳之助 1886年2月7日生)
 [画家/浮世絵師]



 山梨県の綿問屋に生まれるが、父の事業の失敗により、1歳の時、東京に移る。中学時代から久保田米僊、久保田金僊に師事。1902年、16歳の時、「秋色」、「霜夜」を第13回日本絵画協会展・第8回日本美術院連合共進会展に出品、「摘草」を第5回无声会展に出品した。同年、真美会に出品した水墨画「牧牛の図」が褒章を受けたのを始めとし、数多くの賞を受けた。1907年、東京朝日新聞連載の二葉亭四迷の小説『平凡』の挿絵を描いたことが縁となり、1909年に同社に入社、1913年に退社するまでに夏目漱石の小説『虞美人草』や『三四郎』、『明暗』、『それから』などの挿絵を描いたことで、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛けた。

 1915年には小雑誌『新似顔』に役者絵を掲載した。翌1916年に京橋の画博堂で開催された第2回「劇画展覧会」に出品していた肉筆画「鴈治郎の椀久」が渡辺庄三郎の眼にとまり、渡辺版画店から役者絵「初代中村鴈治郎の紙屋治兵衛」を版行、これが春仙の最初の新版画作品であった。春仙の役者絵は、写実に基づきながらも、役者の美しさ、芝居の面白さを無視したものではなく、それが多少甘いと評される訳であるが、本作品の持つすっきりとした爽快感が評価され、代表作となった。

 1958年2月、長女を肺炎で亡くし、1960年3月30日午前7時、妻の繁子とともに青山の高徳寺境内名取家墓前で服毒自殺した。法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた。

 1960年3月30日死去(享年74)