レン・コーネッキー

レン・コーネッキー(Len Koenecke 本名:レナード・ジョージ・コーネッキー 1904年1月18日生)
 [アメリカ・野球選手]



 ウィスコンシン州バラブー生まれ。コーネッキーは1927年にミシシッピ・ヴァレー・リーグ所属のモリーン・プロウボーイズに入団した。1928年にはアメリカン・アソシエーション所属のインディアナポリス・インディアンズと契約した。インディアンズ所属の最終年には、打率.354、本塁打23本、三塁打20本、二塁打23本という記録を残している。

 数シーズンをインディアンズで過ごした後、コーネッキーは1931年12月にニューヨーク・ジャイアンツと75000ドルで契約を交わした。当時のジャイアンツ監督で名将として知られたジョン・マグローは、コーネッキーについて「ナショナル・リーグの輝けるスター選手となろう」と評した。1932年4月12日に初出場し、42試合で打率.255、本塁打4本、二塁打5本という成績だった。コーネッキーがニューヨーク・ジャイアンツに在籍したのは、1年のみであった。

 1933年はインターナショナルリーグに在籍し、打率.334、8本塁打、100打点という成績だった。1934年にブルックリン・ドジャースに移籍し、123試合に出場して打率.320、14本塁打、73打点を記録し、守備率は0.994を記録した。

 ドジャース移籍2年目に入ったコーネッキーの野球選手としての技量は低下し、手に負えないふるまいが多くなっていた。その理由は彼の飲酒問題だった。9月15日のシカゴ・カブス戦終了後にドジャースの監督ケーシー・ステンゲルはコーネッキーを見放し、遠征の途上で彼を帰らせることにした。

 1935年9月17日、コーネッキーはセントルイスからデトロイト行の飛行機に搭乗した。搭乗中、コーネッキーはウイスキーを暴飲し、泥酔状態となった。その上、他の乗客に嫌がらせしたりスチュワーデスを殴ったりしたため、操縦士は座席に彼を縛りつけておかねばならなかった。コーネッキーはデトロイトの空港に到着後、意識を失った。空港の椅子で睡眠をとった後、午後10時頃にコーネッキーはデトロイトからバッファロー行のチャーター便に搭乗した。カナダの上空を飛行中、コーネッキーは乗務員とトラブルを起こした。コーネッキーは副操縦士相手にさんざん暴れ、飛行機は制御を失いかけた。操縦士は墜落を避けるために彼の頭を数回殴り、小型消火器をぶつけた。飛行機がトロントの競馬場に緊急着陸した後、コーネッキーは脳内出血で死亡したことがわかった。操縦士は過失致死罪で起訴されたが、無罪となった。コーネッキーはウィスコンシン州フレンドシップにあるマウントレポーズ墓地に埋葬された。

 1935年9月17日死去(享年31)