芳川鎌子

芳川鎌子(よしかわかまこ 1890年生)
 [芳川顕正伯爵の四女]



 官僚で政治家の芳川顕正の四女。芳川家では男子が早世していたため、曾禰荒助の次男・寛治を婿に迎える。二人の間には娘の明子も生まれるが、寛治には、当時の大身の御曹司の例にもれず放蕩癖があり、妾宅に出入りすることが多かった。身持ちが悪く、妻の鎌子の姉とも噂があった。そのため鎌子はやがてお抱え運転手・倉持陸助と深い仲になる。これを知った顕正と寛治は、倉持を解雇し鎌子を軟禁するが、鎌子は逃げ出して倉持と駆け落ちし、1917年3月7日、省線(国鉄)千葉駅近くの県立女子師範学校脇から走行する6時55分千葉発本千葉行きの単行列車に飛び込み自殺を図る。ところが両者とも重傷を負いながら死にきれず、鎌子は病院に収容されて一命を取り留め、倉持は近くの土手で短刀で喉を刺して自害した。倉持は24歳、鎌子は27歳で5歳の娘がいる身だった。伯爵家令嬢とお抱え運転手の果たせぬ仲が引き起こした心中未遂事件は「千葉心中」として世間を騒がせ、この醜聞で顕正は枢密院副議長を辞任、寛治も政界進出の道が断たれることになった。「千葉心中の歌」という流行歌まで生んだ。

 退院後、鎌子は倉持の後釜のお抱え運転手出沢佐太郎と恋仲になり、1918年10月6日に佐太郎と出奔した。しかし佐太郎は世間から爪弾きにされて就職できなかった。このため、父の芳川顕正は鎌子の度重なる不品行に激怒しつつも仕送りを続けていた。やがて1920年に顕正が病死すると、鎌子は生活に窮し、1921年4月17日、腹膜炎のため31歳で病死した。

 1921年4月17日死去(享年31)