甘粕正彦

甘粕正彦(あまかすまさひこ 1891年1月26日生)
 [陸軍軍人]



 宮城県生まれ。1912年に陸軍士官学校を卒業したが、ひざの怪我を理由に歩兵科から憲兵科への転科で迷い、上官である東條英機の助言で憲兵となり、1921年には大尉となって麹町憲兵分隊長となった。

 1923年、関東大震災の混乱時、甘粕は無政府主義者の大杉栄に妻の野枝、さらに甥の橘宗一を本部に強制連行して厳しい取調べの末に死に至らしめ、遺体を遺棄したとされる。軍事法廷で裁かれ禁固10年の判決を受けた。ただし、この事件には捜査過程も含めて疑わしい点が多く、甘粕が実際に関与していたのかどうかも含めて、左から右まで異論が唱えられている。

 1926年に仮出獄して予備役となり、フランスに留学。1930年に満州に移り、南満州鉄道の職員となったが、関東軍特務機関長の土肥原賢二大佐の指揮の下、特務工作員としての暗躍を始める。1931年の満州事変の時は奉天に潜入して、中国人の仕業に見せかけた爆弾テロを起こし、紫禁城を追われて幽閉されていた溥儀を脱出させた。

 翌年の満州国建国では警務司長に就任し、満州協和会理事や中央本部総務部長などを歴任。その一方で、満州国が裏で主導していたアヘン売買を主導していたとされる。1939年には満洲映画協会理事長に就任した。

 1945年8月8日にソ連は日ソ不可侵条約を破棄し日本に宣戦布告。8月15日には玉音放送、日本は敗戦。翌日の8月16日に甘粕は満洲映画協会の社員を全員集めて「必ず死ぬ」と言った上で、中国人社員に「(満映は)中国人社員が中心になるべき」と述べ、最後に「皆さんのお世話になったことを深く厚く御礼申し上げます」と挨拶した。そのあとに身の回り品を形見として一人一人に配り、社内の預金を退職金として全額引き出した。甘粕の部下は自殺しないよう銃器や刃物などを取り上げ見張っていたが、20日早朝、監視役の目を盗み、隠し持っていた青酸カリで服毒自殺した。

 1945年8月20日死去(享年54)