ジョン・F・ケネディ・ジュニア

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア(John Fitzgerald Kennedy Jr. 1960年11月25日生)
 [アメリカ・弁護士]



 ジョン・F・ケネディ大統領とジャクリーン・ケネディの長男である。ジョン・F・ケネディ・Jr.が誕生したのは父親が大統領に就任する直前であり、幼児期から衆目を集める存在であった。彼は生後3年間ホワイトハウスで過ごした。

 折りしも1963年11月22日にケネディ大統領暗殺事件が発生した日は3歳の誕生日の3日前であった。3歳の誕生日に行われた父親の葬儀において父の棺に対し幼い彼が挙手の敬礼をした姿は世界中の人々の涙を誘い、この場面は1960年代の悲痛な象徴的な出来事として人々の脳裏に記されることになった。

 フィリップス・アカデミーで教育を受け、ブラウン大学に進学。1989年、ニューヨーク大学ロー・スクールより法律学の学位を受ける。

 ニューヨーク州地方検事補を1989年から1993年まで務めた。1996年9月には、カルバン・クラインの広報担当だったキャロリン・ベセットと結婚している。

 1999年7月16日、ケネディ・ジュニアは小型飛行機を操縦し、アメリカ東部のニュージャージー州フェアーフィールドのエセックス・カントリー空港から一家の別荘があるマサチューセッツ州マーサズ・ヴィニヤード島へ向かう途中、ロングアイランド沖の海上で消息を断ち、20日に、マーサズ・ヴィニヤード島南西沖約12キロで、妻キャロリン・ベセット=ケネディ、義理の姉ローレン・ベセットと共に、遺体で発見された。米沿岸警備隊の発表によると、機体は胴体部分が水深約35メートルの海底に横たわり、中から3人が見つかったという。

 彼らは当日、開かれる予定だった故ロバート・F・ケネディ司法長官の末娘、ロリー・キャサリン・ケネディの結婚式に参列しようとしていたのであった。この事件によって挙式は延期された。

 将来の大統領候補と呼ばれたJr.の死は、まさに“ケネディ家の悲劇”の繰り返しであったとして、全米は驚きと悲嘆にくれた。

 国家運輸安全委員会の事故調査の結果、機体、システム全体、航空電子機器、エンジンには機械的異常の証拠は見出されなかった。操縦していた小型飛行機(N9253Nパイパー・サラトガ)は、高性能である反面、機体制御が難しいと見なされている。その上ケネディJr.はパイロットとしての経験はあまり積んでいなかった。飛行時間は310時間で、そのうち夜間飛行は55時間、高性能機での飛行経験は36時間で、計器飛行訓練については規定の半分の訓練時間しか積んでいなかった。

 これらの結果、事故の原因は「操縦者が夜間に海上に降下していくとき空間的な方向感覚を失い、機体の制御が維持出来なくなったため」と結論付けられた。

 また、この事故は一部のメディアでは、大統領に当選した際に、父の死の真相を明かすことを防ぐための暗殺であると噂された。

 以下のことがこのような陰謀論の根拠になっている。
 「フライトインストラクターはいつも必ず同乗していた」「マーサズヴィニヤード空港は視界が悪いとされているが、新しく取り付けれた明かりは、住民から明るすぎると苦情が来るくらい良く見えるはずであった」「マーサズヴィニヤード空港の連絡記録が紛失」「飛行計画も紛失」「フライトレコーダーの最後の記録が紛失」「袋が無傷のまま発見されその中にあるはずの搭乗員等記録されているログブック紛失」「爆破の目撃者が居たが、その後花火と言い出し、行方不明となる」

 1999年7月16日死去(享年38)