花園愛子

花園愛子(はなぞのあいこ 本名:稲田ミサ 1906年3月15日生)
 [漫才師]



 東京生まれ。夫・桂金吾とコンビを組み、3代目春風亭柳好に弟子入りする。漫才師が落語家に弟子入りするのは珍しいが、春風亭柳好は漫才も落語もできる重宝な存在として弟子にしたのだという。

 桂金吾と花園愛子は、歌と三味線を取り入れた味のある夫婦漫才が売りで、東京吉本の専属として浅草で活躍していた。

 1937年に日中戦争が勃発すると、吉本興業が朝日新聞社と共同で、中国大陸に派遣された兵士を慰問するための演芸派遣団「わらわし隊」を結成。その慰問団に金吾と愛子を含む計10名が抜擢された。

 悪条件とハードなスケジュールの中、戦場での危険にも怯まず、列車や軍用トラックで移動した。そして野天の舞台を厭うことなく、兵士の歓声や笑顔を支えに慰問活動を遂行していた。

 1936年7月22日、一行は済源から黄河渡河地点の最前線へ慰問に向かうためにトラック4台で出発した。しかし、河南省北部の黄河の支流の畔にさしかかったときに中国軍の待ち伏せ攻撃を受けた。全員がトラックから飛び降りて河原へ散開して応戦したが、護衛兵が数十人程度の慰問団に対し、機関銃を装備する敵200人に囲まれて負傷者が続出した。その日に限って先頭車の助手席に座っていた愛子は、負傷した運転手を抱えて下車しようとした際に右大腿部に2発の銃弾を受けて歩行不能、金吾らが車から降ろしたときにはすでに虫の息だったという。覚悟を促された慰問団の芸人たちは、おのおの戦死者の銃をとり戦闘に参加した。救援隊が駆けつけるまで4時間にもわたり、この間、充分な手当が出来なかった愛子は出血多量で亡くなった。

 愛子は現地で荼毘に付され、金吾は遺骨の入った木箱を胸に、愛子を失った悲しみを抑えて、その後1ヶ月間、予定の慰問をこなした。「慰問の先々で暖かいもてなしを受けたが、移動の途中に車が揺れて箱がカタカタ鳴る度に痛がっているようで哀しく感じた」と金吾は後に語っている。

 東京に帰還後、9月1日に浅草の東本願寺で盛大な帝都漫才協会葬が営まれ、会葬者3000人を数えたという。名誉の戦死を遂げた愛子には勲八等の叙勲があり、戦後の1965年には陸軍軍属として靖国神社に合祀された。

 当時、金吾と愛子の間には小学生の幼い女児がおり、この女児は長じて8代目古今亭志ん馬夫人となった。

 1941年7月22日死去(享年35)