ジョゼフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーヴ(Joseph Gilles Henri Villeneuve 1950年1月18日生)
[カナダ・レーシングドライバー]
カナダのケベック州モントリオールに程近いリシュリューで生まれ、近郊のベルティエヴィルで育った。青年時代まではスノーモービル競技の選手で、弟とともにチャンピオンを獲得した。1973年から自動車レースに転向し、フォーミュラ・フォードのチャンピオンになる。1974年からフォーミュラ・アトランティックに参戦、1976年9月5日にトロワリヴィエール市街地で開催されたフォーミュラ・アトランティックレースで、スポット参戦したF1ドライバーのジェームス・ハントを下して優勝。1976年~1977年と2年連続チャンピオンを獲得した。その後、ハントの推薦により、ハントの所属するマクラーレンとスポット参戦契約を交わした。
1977年7月17日の第10戦イギリスGPにて、マクラーレンのサードドライバーとしてF1デビュー。水温計の故障で一時ピットインするも、11位完走した。このデビューレースでの走りがエンツォ・フェラーリの目にとまり、チームとの確執から離脱したニキ・ラウダに代わり、第16戦カナダGPからフェラーリに加入した。最終戦日本GP(富士スピードウェイ)で、序盤にティレルのロニー・ピーターソンに追突してしまう。ヴィルヌーブのフェラーリは宙高く舞い上がり、立ち入り禁止区域にいた観客らの中に落下。マシンは大破したにもかかわらずヴィルヌーブは無傷だったが、観客と警備員の計2名が死亡、計9名の重軽傷者を出す結果となってしまった。この惨事は進入禁止エリアで観客が観戦し、警備員が再三の撤退を促していた中で起きたものである。しかし当時の日本ではモータースポーツへの理解が低かったこともあり、ヴィルヌーヴは業務上過失致死の容疑で書類送検され、事実上日本から永久追放処分となってしまった。この事故も一因となり、日本におけるF1開催は10年間にわたり中断されることになる。ヴィルヌーヴは日本を含む各国のマスコミから激しい非難に晒されたが、エンツォ・フェラーリは「死亡事故は今までにもたくさんあった、これがF1レースの世界だ」と擁護した。
1982年第4戦サンマリノGPは、ヴィルヌーヴがトップ、ディディエ・ピローニが2位と、2台のフェラーリが他を大きく引き離す状態でレースが進んだ。終盤には「燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるように」との意味でピットから「"SLOW"」のサインが出され、ヴィルヌーヴはリスクを冒さず、ペースを落とした。しかし2位のピローニはレース終盤にヴィルヌーヴを追い越してしまった。その後トップを奪い返したがピローニは最終ラップで再度抜き返す。裏切りに気付いたヴィルヌーヴはペースを上げてピローニを追ったが、結局2位に終わった。表彰式でシャンパンを手にはしゃぐピローニの後ろで、ヴィルヌーヴは無言を通したが、内心はピローニに対して激しく怒っていたといわれる。ヴィルヌーヴはこの事件以降ピローニを拒絶。「もうあいつとは口を利かない、チームメイトとしても扱わない」と断言し、両者の関係は修復不可能なほど悪化してしまう。
続く第5戦ベルギーGPの予選2日目(1982年5月8日)、ヴィルヌーヴはピローニが自身の予選タイムを上回ったと聞くやいなや、再び予選アタックへと飛び出していった。ピローニのタイムを更新することができないままタイムアタックを続ける中、最終コーナーのS字カーブでスロー走行中のヨッヘン・マスのマシンに遭遇。マスはヴィルヌーヴの接近に気付きレコードラインを譲ろうとしたが、ヴィルヌーヴも同じ方向に動いてしまった。ヴィルヌーヴ車は推定時速230km/hに達していたといわれる。この結果、ヴィルヌーヴ車の左フロントタイヤがマス車の右リアタイヤに乗り上げ、ヴィルヌーヴ車は回転しながら宙に舞い上がった。マシンは前部から路面に激突して150m転がり大破し、この時の衝撃でシートベルトが引きちぎれ、ヴィルヌーヴの身体はマシンから投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけられた。現場や病院で救急隊により蘇生処置が施されたが、ヴィルヌーヴは頚椎その他を骨折しており、その日の夜9時過ぎに死亡した。32歳であった。