マルコ・パンターニ

マルコ・パンターニ(Marco Pantani 1970年1月13日生)
 [イタリア・自転車競技選手]



 チェゼナーティコ出身。プロ通算36勝を挙げたイタリアのヒーローであり、1998年にジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスの2大ステージレースで個人総合優勝したクライマーとして有名な選手である。スキンヘッドに顎ヒゲをたくわえた容貌や、レースに対する求道的とも言える姿勢から「海賊 」「走る哲学者」といった愛称で呼ばれた。

 幼少の頃はサッカー選手に憧れていたが、挫折し12歳で自転車競技をはじめる。1992年にベビー・ジロに優勝して同年8月にカレラ・タッソーニでプロデビューを果たす。当初はなかなか勝てず、1993年のジロ・デ・イタリアでも腱炎でリタイアといった苦戦が続く。だが翌年のジロ第14・15ステージで連勝し、ミゲル・インドゥラインを抑えて総合で2位。同年のツール・ド・フランスでも個人総合3位に入り、最優秀若手選手賞を獲得。一躍トップ選手の仲間入りを果たした。

 1995年のジロ・デ・イタリア直前の5月1日、トレーニング中に信号無視の車にはねられ無念の欠場。だがツール・ド・フランスではラルプ・デュエズへの頂上ゴールが設定された第10ステージで優勝するなど、2勝。総合では13位に入り、2年連続でマイヨ・ブランを獲得したほか、10月に開かれた世界選手権でも3位に入る活躍を見せた。

 だがその直後に開催されたミラノトリノにおいて、下りで加速しているときにコースを逆走してきた車(警察が全選手が通過したと勘違いして交通規制を解除したことが原因)と正面衝突。左足の下腿骨が折れて、皮膚から飛び出す大けがを負い、選手生命の危機に直面する。そのため1996年のシーズンは、リハビリと回復のためのトレーニングに丸々費やすこととなってしまった。

 1997年はカレラに代わり、新しいスポンサーとなったメルカトーネウノのエースとして、春のフレーシュ・ワロンヌで5位、リエージュバストーニュリエージュで8位という好成績を収め、復活を期してジロ・デ・イタリアに臨んだが、第8ステージで、前に飛び出してきた猫をかわそうとした選手たちの落車に巻き込まれてリタイアしてしまう不運に見舞われる。

 しかしツール・ド・フランスでは、ラルプ・デュエズへの山頂ゴールが設定された第13ステージでは37分35秒という最短登坂記録で優勝。さらに第15ステージでも優勝し、総合3位。完全復活を遂げた。

 1998年には選手生活の絶頂を迎え、ジロ・デ・イタリアでパヴェル・トンコフと最終ステージまで首位争いを繰り広げながら、念願の総合優勝を達成して山岳賞も同時獲得。ステージ2勝も達成した。さらにツール・ド・フランスでも終盤の第15ステージのガリビエ峠で、マイヨ・ジョーヌを着るヤン・ウルリッヒに対してアタックを仕掛け、逆転に成功。総合優勝を飾り、2大グランツールを制覇。史上7人目となる「ダブルツール」を達成する偉業を達成した。ツールでのイタリア選手の優勝はフェリーチェ・ジモンディ以来33年ぶりであり、パリの表彰台ではジモンディも駆けつけ優勝を祝った。また、ツール最終ステージでは優勝を祝してチームメイト全員がスキンヘッドで登場した。

 1999年もシーズン序盤のブエルタ・ア・ムルシアで総合優勝し、5月に出場したジロ・デ・イタリアではステージ4勝という圧倒的な成績を挙げ、総合2連覇も目前だった。だが、大会最終日前日6月5日、UCIの検査とは別に、イタリアが独自で行った抜き打ちのメディカルチェックでヘマトクリット値(赤血球濃度)が、UCIの定めた50%という数値を超える52%を示し、出場停止となってしまう。同年はこの後、レースに出場することはなかった。

 そして2000年のジロ・デ・イタリアで復帰。総合優勝を遂げたステファノ・ガルゼッリのアシストを積極的に努め、自分も総合28位に入り、復活をアピールした。しかしツール・ド・フランスではランス・アームストロングの前に苦戦。それでも難峰モン・ヴァントゥがゴールに設定された第11ステージでアームストロングとの一騎打ちを制して優勝するなどの見せ場を作り、ステージ2勝を挙げるが、結局途中棄権。シドニーオリンピックでも69位に沈んだ。

 追い討ちをかけるように翌2001年にはドーピング疑惑が再燃。本人は一貫して薬物の使用を否定するも、UCIから2003年3月までのレース出場停止処分を受けることになった。

 出場停止処分が明けた2003年のジロ・デ・イタリアでは、総合14位に入り、ツール・ド・フランスへの出場にも意欲を見せたが、突如チームメイトたちの前から姿を消す。結局この年は再びレースに参加することはなかった。

 以後、パンターニがメンタルクリニックに通っている、夜中に道で泣いているといった報道が切れ切れにされるなか、2004年2月9日、イタリア北東部の街・リミニのホテル「Le Rose」にチェックイン。5階にある5-D号室に閉じこもり、どこにも外出しないまま2月14日の夜9時30分、上半身裸の姿で床に倒れて死亡しているのを発見された。当初は死因不明の自殺とされていたが、調査の結果、コカイン中毒により脳と肺に水腫ができていることが判明。コカインの常用によるオーバードースが原因で死亡したと発表された。

 自転車競技界からは才能を、家族からは財産を搾り取られ、マスコミに追い立てられて神経衰弱とコカインに蝕まれた挙げ句、頼れるものもなく孤独な死を遂げた悲劇のヒーローとも言える彼の死は大きな波紋を呼び、生まれ故郷のチェゼナーティコで営まれた葬儀には著名選手らの他、ファン数千人が参列した。

 最晩年、精神的に不安定だったパンターニの財産は家族の管理下におかれており、彼は生活費とクレジットカード1枚を渡されていただけだった。パンターニが死んだとき、両親はバカンス旅行中で、彼の死を知ったのは2日後であった。

 彼はパスポートに遺書ともとれる幾つものメモを残していたが、そこには「4年間、あらゆる裁判所に通う日々だった」「血を採られないといけない職業がほかにあるのか?」「僕のプライベートそしてキャリアが犯され、僕は多くのものを失った」といった悲痛な言葉が書き綴られていた。

 ホテルの滞在中、部屋にバリケードを築き誰も入ってこられないようにしたり、ずっとテレビをつけっぱなしにしていたりといった奇行が目立ったらしい。最後に注文した食事はチーズとマッシュルームのオムレツだったが、発見時に床に放り出されており、手をつけた形跡はなかった。

 2004年2月14日死去(享年34)