栗田源蔵

栗田源蔵(くりたげんぞう 1926年11月3日生)
 [連続殺人犯]



 栗田源蔵は、秋田県の極貧家庭に生まれた。川漁師だった父親は病弱だったため母親が家計を支えていたが、典型的な「貧乏人の子沢山」で、源蔵は両親から放置されながら成長した。さらに源蔵は夜尿症が小学校就学期になっても直らず、学校では尿臭が原因でいじめに遭っていた。小学校卒業後は農家に下男として奉公するものの、やはり夜尿症が原因で嫌われて追い出され、1年間に10回以上も奉公先を代わらざるを得なくなる。この夜尿症は後の死刑執行直前ごろまで彼を悩ませ、心身を蝕んでいった。

 1948年、ヤミ商売のブローカーとして生計を立てていた源蔵は、三角関係のもつれから静岡県において交際女性を2人とも絞殺し、遺体を沼津市の海岸に埋めた。さらに1951年8月8日、栃木県で乳児を寝かしつけようとしていた主婦(当時24歳)を強姦しながら絞殺した揚句、死姦した。10月10日には千葉県勝浦駅において行商に出たまま行方不明になった夫を探すために偶々同駅に降り立った母子4名を誘い出し、日付が変わり翌日深夜長男(当時6歳)と長女(当時11歳)を千葉県小湊町にある断崖絶壁、通称「おせんころがし」にて投げ落とした挙句、主婦(当時29歳)を強姦して背中に背負っていた次女(当時3歳)ごと投げ落とした。被害者達は崖の途中に止まっていたが、源蔵はそんな被害者達を石で殴打し殺害した。長女だけは軽傷で隠れていたため奇跡的に生き延びる事ができた。1952年1月13日、千葉県検見川町で、盗みに入った家の主婦(当時25歳)に発見され、首をタオルで絞めて殺害し、一緒に家にいた叔母(当時64歳)の腹を包丁で刺して殺害、主婦を死姦した。この際指紋が検出され、これにより源蔵が割り出され逮捕された。

 まず、1952年1月13日の事件で千葉地裁で1952年8月13日に死刑判決。1953年12月21日に宇都宮地裁で他の件に関して死刑判決。控訴は取り下げたものの、判決後は衰弱がひどく、再審を繰り返す。1959年10月14日に死刑は執行された。死の前は、かつて凶暴な面影はなく、やせ衰えて気弱な男になっていたという。一審で二つの死刑判決を受けた初の例でもあり、後に警察庁広域重要指定事件113号が起こるまでは、この例は裁判例としては死刑を二つ宣告された唯一の例だった。また、1956年に死刑を廃止か存続かの問題で国会で論争になった際には、死刑存置論者に「8人を殺害した凶悪無比な特殊な極悪人」として矛先に挙げられた。

 本人は「懺悔録」という手記を書いている。曰く、「女と寝る時は叩いたり、締めたりすると、とてもいいぞ」と9歳の頃老人に言われたとの事である。本人はこの書物を売ろうとしたが断られてしまった。

 1959年10月14日死去(享年32)