トミー・ボーリン

トーマス・リチャード・ボーリン(Thomas Richard Bolin 1951年8月1日生)
 [アメリカ・ギタリスト]



 アメリカ合衆国アイオワ州生まれ。12歳からドラムを始め、その後ギターを弾き始める。オルガンも経験していたとされている。いくつかのアマチュア・バンドを経て、1968年にハードロック・バンドのゼファーのギタリストとしてプロ・デビューを果たす。3年間在籍した後、エナジーというバンドに移籍。さらにエナジー脱退後の1973年、フルート奏者のジェレミー・スタイグの紹介により、ビリー・コブハムのアルバム「スペクトラム」に参加し高い評価を得る。その後、商業的に成功していたアメリカのバンドジェイムス・ギャングに参加。これにより、トミー・ボーリンの名前が一般的なロック・ファンの間で広く知れ渡るようになる。

 1974年7月にジェイムス・ギャングを脱退した後、1975年6月にイギリスのハードロック・バンド、ディープ・パープルにギタリストとして加入。トミー・ボーリンは初めてのアメリカ人メンバーであった。同年10月、アルバム『カム・テイスト・ザ・バンド』が発表されるが、ディープ・パープルの音楽性の変転はファンに戸惑いを感じさせるのに十分だといわれ、多くの批判の声が挙がった。それでも11月のハワイでのコンサートを皮切りに、東南アジアまでを含めた大規模なツアーが敢行され、問題なく終了するも、本国イギリス公演にてマスコミやファンに激しく叩かれた彼らは、やがて空中分解状態となり、1976年7月に解散した。

 その後、トミー・ボーリンは自らのバンドを結成してライブ活動を展開、2枚目のソロ・アルバムを発表するが、1976年12月4日、ジェフ・ベックのツアーの前座として参加していた時、フロリダ州マイアミのホテルにて死去した。

 死因は、麻薬の過剰摂取であると発表された。麻薬常習者であった彼の身体異常は、ディープ・パープルのツアーの時点で既に表面化しており、1975年12月のラスト・コンサート・イン・ジャパンでは東南アジアで品質の悪いヘロインを注射したために手と指の麻痺によってボトルネックギターしか演奏する事が出来なかった。近年ではアルバムの再発などによって再評価する声があるが、当時はこれらの件のために、「ディープ・パープルを解散に追いやった下手くそギタリスト」の烙印を押されてしまう他、ソロアルバムでのジャズとロックの融合もジェフ・ベックが美味しい所を持って行ってしまう等、最近では「悲運のギタリスト」と呼ばれることもある。

 1976年12月4日死去(享年25)