ジョセフ・メリック

ジョゼフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick 1862年8月5日生)
 [イギリス・身体奇形の人物]



 イングランドのレスターに生まれる。生後21ヶ月の頃には身体に変形の兆しを見せはじめ、左腕などを除く皮膚、骨格の大部分に特徴的な膨張と変形を来した。11歳になる年に母を亡くし、症状の進行につれて仕事もままならなくなり、継母に疎まれて家を追われる。叔父のもとを頼るが、異様な風貌から行商もうまくいかず17歳で救貧院に入った。

 数年の収容生活にも明るい見通しはなく、21歳のメリックは見世物興行に働き口を求めた。見世物小屋には陰惨なイメージがつきまとうが、後の回想によれば興行師には寛大に扱われたといい、実際に自活できるだけの収入も得ることができた。この売り込みのため「エレファント・マン」の名がつけられ、「妊娠中の母親が象に踏まれかけたショックのため」などと宣伝された。

 しかし社会的に見世物小屋を排斥する風潮が強まるとロンドンを離れ、ヨーロッパを廻る興行に身を委ねざるをえなくなる。数か月後には職を失って貯えも取り上げられ、ようやくブリュッセルからロンドンに辿り着いたところを、以前に診察を受けたことのある医師フレデリック・トレヴェスに保護された。

 その後ロンドン病院で健康を回復したメリックは、部屋をあてがうための寄付を募る投書がきっかけで広く同情を得、やがてアレグザンドラ皇太子妃の訪問を受けるなど上流社会である種の名声を得るようになった。

 1890年4月11日、すでにかなりの衰弱をみせていたメリックは正午まで起き出さないのが通例になっていたが、研修医が午後の回診に来たときには仰向けに寝たまま亡くなっていた。死因は頸椎の脱臼あるいは窒息死とされ、一見したところ事故死であった。彼はその頭部の巨大さから普段はベッドの上に座り、抱えた両膝に頭を乗せるようにして寝ていたが、この日に限って仰向けに寝ることを試みたものとも言われる。

 死後、亡骸各部の石膏型および骨格標本が保存されて研究の対象となっているほか、いくつかの遺品は博物館で見ることができる。皮膚などの組織標本は第二次世界大戦下で失われた。

 メリックの疾患は骨格の変形と、皮膚の異常な増殖からなっていた。皮膚は各所で乳頭状の腫瘍を示し、とくに頭部や胴部では皮下組織の増大によって弛んで垂れ下がっていた。右腕・両脚がひどく変形肥大して棍棒のようになっていたのに対し、左腕や性器は全く健全だった。

 上唇から突出した象の鼻状の皮膚組織が一時は20センチ近くに達し、このため会話や食事は終生不自由で、救貧院時代にいったん切除している。会話は困難だったが知能は正常で、12歳までは学校にも通っていて読み書きは堪能だった。また少年時代にひどく転んで腰を痛め、脊柱も湾曲しており歩くときは杖が必要だった。

 原因については当時から、レックリングハウゼン病などとして知られる神経線維腫症1型、また俗には象皮病と結びつけて考えられてきたが、近年では特定の遺伝的疾患群をさすプロテウス症候群とする見方が有力である。

 1979年から1980年にかけて舞台と映画の両方で彼の生涯が取り上げられ、再びメリックは脚光を浴びることになった。両作品はいずれも大成功を収め、1979年の演劇作品『エレファント・マン』はトニー賞を受賞、また翌年の映画『エレファント・マン』はアカデミー賞に推された。

 1890年4月11日死去(享年27)