コンチータ・スペルビア

コンチータ・スペルビア(Conchita Supervia 1895年12月9日生)
 [スペイン・歌手]



 バルセロナにて、アンダルシア人の一家に生まれる。はじめ地元の修道院で学ぶが、12歳のときバルセロナ・リセウ音楽院に入り、声楽の勉強を開始した。1910年、15歳のときにはアルゼンチン・ブエノスアイレスのコロン劇場でデビューしている。1911年にはローマ・コスタンツィ劇場でのリヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』イタリア初演にオクタヴィアン役で参加、翌1912年には出身地バルセロナのリセウ劇場ではじめてビゼー『カルメン』の題名役を歌い、第一次世界大戦中の1915年にはシカゴで『カルメン』やマスネ『ウェルテル』、トマ『ミニョン』でアメリカ大陸デビューを飾るなど、20歳そこそこで国際的活躍を開始した。

 大戦終了後には再びローマに招かれ、19世紀後半から慣例的にコロラトゥーラ・ソプラノによって歌われていたロッシーニ作曲のオペラ諸ヒロイン役、すなわち『ラ・チェネレントラ』アンジェリーナ役、『アルジェのイタリア女』イザベッラ役そして『セビリアの理髪師』ロジーナ役を、ロッシーニのオリジナル通りメゾソプラノ・レッジェーロの声域で歌うという快挙を成し遂げ、一躍注目された。1924年からは5シーズン連続でミラノ・スカラ座にも出演したが、奇妙なことに彼女の十八番とされた上記ロッシーニ諸役およびカルメン役をスカラ座で歌うことはなかった。

 1930年からはロンドンでも活躍、はじめはリサイタルで、1934年の『ラ・チェネレントーラ』からはコヴェント・ガーデン劇場でも活躍した。リサイタルでたびたび舞台を踏んだロンドン、ウィグモア・ホール近くで花屋を経営するイギリス人男性と結婚、その後の妊娠のため1935年秋のシーズンはキャンセルした。

 1936年3月29日、スペルビアは出産のためロンドン市内の病院に入院したが、翌30日まず新生児を死産、数時間後に彼女自身も亡くなった。愛らしい丸顔、コケティッシュな演技力と、その悲劇的な最期から今日でもファンの多い歌手である。

 1936年3月30日死去(享年40)