前田寛治

前田寛治(まえたかんじ 1896年10月1日生)
 [洋画家]



 鳥取県生まれ。第三高等学校(現・京都大学)の受験に失敗して画家を志し、美術教師の中井金三に1年間絵を学ぶ。さらに上京して白馬会葵橋洋画研究所で学び、1916年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学を果たす。在学中の1920年、恩師中井をリーダーとする倉吉の文化団体「砂丘社」の創立より参加し積極的に同人展に出品する。

 1921年、東京美術学校を卒業して研究所に進級し研究生となり、翌1922年からフランスに滞在し、パリの美術学校アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに籍を置いてクールベの写実主義を研究する。帰国後、『J.C嬢の像』を第6回帝展に出品し特選。1926年にパリ時代の友人である佐伯祐三、里見勝蔵、小島善太郎たちと「1930年協会」を結成する。1928年6月に東京杉並区天沼にアトリエ兼自邸を建てて前田写実研究所を開設し、当地で後進達の指導をしつつ自身が目指す写実画の更なる探求をはじめる。

 帝展での特選を重ねて1929年に帝展審査員に選ばれ務めるが病に倒れ、都内の病院に入院する。その病室で絶筆となる大作「海」を完成させ、1930年4月16日に鼻孔内腫瘍により33歳の若さで逝去した。10年に満たない短い活動期間であったが、彼の古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が「前寛ばり」という流行語を生むなど当時の芸術家に多大な影響を与えた。

 1930年4月16日死去(享年33)