ライアン・フリール

ライアン・ポール・フリール(Ryan Paul Freel 1976年3月8日生)
 [アメリカ・プロ野球選手]



 フロリダ州ジャクソンビル出身。1994年6月2日、セントルイス・カージナルスから14巡目(全体362位)でドラフト指名を受けるが、これを拒否。契約には至らず。翌1995年6月1日、トロント・ブルージェイズから10巡目(272位)でドラフト指名を受け、6月12日契約が成立しプロ入り。この年からマイナーリーグでプレーを始める。入団後の道のりは決して平坦なものでは無く、6年間はマイナー暮らしが続く。2000年に頭角を現すと、プロ7年目となる2001年4月4日にメジャー・デビューを果し、翌4月5日にはセンター前に初安打を放っている。わずか9試合の出場にとどまるが2盗塁を記録し、スピードの片鱗をうかがわせた。だが壁は厚く、その後3年間はもっぱらマイナー暮らしに明け暮れる。2002年はタンパベイ・デビルレイズに、翌2003年はシンシナティ・レッズに移籍。本格的にメジャーに定着したのは、レッズへ移籍して2年目となる2004年。143試合に出場の上、37盗塁(リーグ4位)・8三塁打(同5位)・内野安打22本・バント安打8本と持ち前のスピードを存分に発揮、10年目にしてスタメンの座を掴んだ。なお、死球数もリーグ8位にランクしている。

 レギュラー2年目の2005年は、6月と8月に左足と右ヒザの負傷により二度にわたって故障者リスト入りするなど、アクシデントに襲われ出場数が減少したが、ほぼ前年同様の安定した数字を刻んだ。7月27日には、球団記録の1試合5盗塁を決めている。2006年は、キャリアハイの30二塁打・8本塁打をマークし、3年連続36盗塁以上を決めた。9月21日には左手親指を骨折、そのままシーズンを終える。2007年4月16日、2年間の契約延長が成立。前年までは守備位置が固定されず、二塁手・三塁手・左翼手・中堅手・右翼手など、日替わりポジションで出場するユーティリティープレイヤーであったが、当年は中堅手の定位置確保にほぼ成功しかけていた。しかし5月28日に打球を捕球する際にフェンスに激突して頭部と首を打撲、7月3日に復帰したものの8月には右ヒザ内視鏡手術を受けそのまま全休と、不本意なシーズンに終わった。

 2008年は出場機会が限られたものになり、6月4日には右ハムストリングを負傷し、故障者リスト入り。2008年12月10日、他のマイナー2選手とともにボルチモア・オリオールズのラモン・ヘルナンデスとトレード。2009年5月8日、シカゴ・カブスのジョーイ・ギャスライトとトレード。7月6日に金銭もしくは後日発表選手とのトレードでカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍。8月5日にロイヤルズから戦力外となった。2010年は、独立リーグであるアトランティックリーグのサマセット・パトリオッツでプレーしたが翌年に現役を退いた。2012年12月22日、フロリダ州ジャクソンビルの自宅で、銃で自殺した。度重なる怪我で引退に追い込まれたショックが大きかったと考えられる。ライアンは生前、10回以上脳震盪を経験しており、自殺との因果関係の研究のために、外傷による脳障害の研究で知られるボストン大学にライアンの脳の一部が提供された。

 2012年12月22日死去(享年36)